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[必册人] 井上鑑
[必册人] 井上鑑

 桐朋学園大学作曲科で三善晃氏に師事。81年、『GRAVITATIONS』でデビュー。寺尾聰『ルビーの指輪』で日本レコード大賞編曲賞受賞。以降、先鋭的な作編曲家、アーティストとして先端を走り続け、多数のヒット作を持つ。06年、13枚目のアルバム『CRITERIA』を発表。

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井上鑑 千律譜 BASHO

句楽眩想曲集 Vol-13 「柳哉」

[句楽眩想曲集]
2010年04月06日


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と聞けば思い描くシェイプがある。水辺に植えられることが多いためか、山野ではなく人間生活の傍らにあるイメージも強い。枝垂れるその姿からは四谷怪談や入水したオフィーリアなどの姿が連想され、いささか演劇的に過ぎる感もあるほどである。でも、その葉の鮮やかな緑は風になびくと何とも音楽的な身のこなしを見せ、静かでしなやかな生命力を感じさせる優美な樹木なのだ。
こうした強さは少しだけ過剰だったのか、古来中国でも日本でも鬼門封じであるとか言われて、植える場所や方角を気をつけろ、とマフィアまがいの扱いを受けてきたようである。東京が江戸だった頃から神田川沿いには一定間隔で柳が植えられていたらしく、お岩さんが化けて出るときの脇役に柳を選んだのではなく、他の木を探す方が手間だっただけだったのかもしれない。

何故かこのマジカルさは名字や名前に柳を抱く人達にも影響を与えることがあるらしい。柳美里柳宗悦一柳慧柳田国男大友柳太朗、と並べてみるといずれ劣らぬ迫力の持ち主であることに驚いてしまう。芸名の方もいるのだからあまりこじつけるにも無理があるが、とは言え個性派、そして一家言あると言う点ではいずれ劣らぬ感があるのは不思議なくらいではないか。しかも仕事の仕方が「力任せ」という感じではない点も、柳たる所以かもしれない。

ところが、意外なことに柳という樹木の多数派は「枝垂れてはいない」のであった。ヤナギ科植物には200種近い様々な種類があり、シダレヤナギ、ポチヤナギなどは僕の頭の中に浮かんだシェイプそのものの姿形をしているのだが、図鑑で見る限り、ヨーロッパシロヤナギを始め「これが柳なのか!?」と思ってしまうような普通の木も多い。
ポプラがヤナギ科なのだと教えられたのは、桜がバラ科であると知った時同然の驚きでもあった。枝垂れていない連中もヤナギには違いないし水辺に多く植えられているのだが、もの狂おしいイメージは皆無なのだから風水で疎まれることは身に覚えのない事と感じることだろう。ハードロッカー風ロングヘアーからリクルートカットに髪型を変えれば、同じ人物も別人の如く見られるのと同じようなことなのだ。

シダレヤナギは中国を中心に分布しており、日本にも渡ってきたのは同じ系統のものらしい。もっとも原産地はよく判らないと言うことなのだから、植物の歴史も複雑なものである。柳に対するイメージは日中共通の土壌があるようだが、世界レベルでは通用しない可能性も高いのだ。日本人がオリーブの樹について共通のイメージを持っていないのと同様、枝垂れ柳を知らない国民も多いのだろうか。

 

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音楽図譜「Cruising Blue」Vol02_Part2/Music by Akira Inoue

■実際に登場しているのかどうかはよく知らないが、柳はデビッド・リンチの世界には似合う気がする。少しずつコードの進行と違う時間軸で推移するようなピアノを重ねているのだが、その「ずれ」に生まれる淡い影のような響きにノスタルジーがくわわる時、微細な物語が語られる。

 

デビッド・リンチの世界とは異なるアメリカ中西部を見せてくれたテレビドラマ「燃えよカンフー」は、1970年代の作品としては異色の存在であった。シダレヤナギから主人公ケインを演ずるデビッド・キャラダインの手つきを思い出したわけではないが、この時代のアメリカン・テレビドラマに中国と仏教が重要な意味を占めている事は印象に鮮やかである。妙にゆっくりとしたストーリー展開、主人公の背景が断片的に明かされていき、やがて全体像が見えてくると言う当時としては斬新な語り口も魅力であった。そして決して美形とは言えないが、表情に物語を秘めた翳りを湛えたデビッド・キャラダインの俳優としての存在感。理想的アメリカ日常生活グラフィティでは全くないという切り口は、スローモーションの多用という映像的な新鮮さと共に熱心な支持者を生むに至ったわけである。

後になって、実はブルース・リーが原案を考えたのであり、自らがケインを演ずるつもりだったことを知ったのだが、結果論だけで言えば制作サイドには眼があったと言うことになるだろう。どう見ても白人のキャラダインがもの悲しそうなたたずまいで中国武術を使うからこそ、アメリカ中西部で刺客に追われる主人公の姿に謎が生まれたのである。本当の中国武術を体現してブルース・リーが演じたとしたら、受け取る側はアクションフィルム以上の意味を想像できたかどうか?はなはだ疑問と言うしかないのである。それでも異文化に対する認識という点で、どこまでのオープンさをこの作品に読み取るかは微妙な問題だろう。ブルース・リーが登場していなくても、あまりにも類型的な東洋人像があふれている事も明白だからである。

ジム・ヘルムス作曲による音楽も若干説明的に過ぎて、実は記憶に残ってはいなかった。東洋の楽器と西欧的な感性が本当の意味でコラボレートするには未だ経験値が不足していたのに違いない。発注する側の先入観が生んだものかも知れないが、中国箏や木魚などが聞こえてきても音楽がテーマ性や独自性に欠ける感じは否めないのだ。改めて注意を傾けてみると、それなりに現代音楽的で決してレベルが低いわけではない。ニーズに答える譜面として良く出来ていても、良い音楽にはなり得ない場合もある、それが創作というものの怖さなのだ。


発行人 井上鑑記す

 

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