『春日井建全歌集』が、砂子屋書房より刊行された。春日井建は塚本邦雄を中心に花ひらいた前衛短歌運動でも、もっとも若い歌人として登場し、奔放なイマジネーションで構築された華麗な美意識の世界を展開してみせた。
春日井建が歌壇にデビューしたのは、一九五八年、十九歳の時だった。当時、角川書店で、短歌専門誌の「短歌」の編集長をしていた中井英夫に見出され、同年の「短歌」八月号に、「未青年」と題する五十首を発表するという異例の登場をした。
一九五四年に「短歌研究」の編集長として、中城ふみ子、寺山修司という異才の歌人を鮮烈に登場させた中井英夫が、その四年後には春日井建に、中城、寺山以上の期待をかけていたのであろう。
中井英夫は自らが関わった短歌史を綴った『黒衣の短歌史』(潮出版社 一九七一年刊)で、春日井建について次のように記している。
「十九歳の少年だった春日井建の作品を、名古屋から出ている結社雑誌の「短歌」誌上で知ったとき、当然私の心は躍ったが、それはかつてのように不安を伴ったものではなかった。二段組みに並べられたたった五首ほどの歌に私があらん限りの呼気(プシケー)を吹き込み、いきなり見よこれを、というふうに高々と示したとむしても、もう周囲には私がただの好き嫌いで作品を判別しているのではないと知ってくれる有力な知己が多くいたのだ。この五十首は、四回作り直してもらった。そのことをのちに非難する文章もみたが、私にはいまもってその非難の意味が判らない。『未青年』を発表する前、ようやく退院した寺山修司に原稿を示して「どうだろう」というと、彼は「うんといい、うんといい」とだけくり返した。美しい詞書で始まるこの一連は、発表たちまち三島由紀夫が眼をとめて絶賛し、春日井を現代の定家になぞらえたことで知られているが、いまもって緑の滴りのような印象は失っていない。」
とても、うらやましく、また、小気味の良い文章である。天才的歌人の出現に関する伝説として、中井英夫、寺山修司、三島由紀夫の三人の登場人物は、まさに、これ以上はないという配役だ。
このときに絶賛された作品をはじめ、二十歳までにつくられた歌のみを集めて、一九六〇年に、処女歌集『未青年』が刊行される。

歌集『未青年』の冒頭の五首を引用した。確かに青春の歌以外のなにものでもないが、とにかく、それまでの短歌のイメージを著しく塗り替えている。
日没後の残照を「大空の斬首ののちの静もり」と捉える感性の異常さ。「空の美貌を怖れ」て泣く幼児期よりのトラウマ。三首目、四首目は表現は一、二首目ほど激しくはないが、ここで詠われている恋は、同性愛の匂いがする。そして、最後の歌は、母への近親愛であることは隠しようもない。
中城ふみ子の死を目前にした奔放な性愛の歌とも、寺山修司の自在に虚構を駆使した青春歌とも、明らかに異なる世界がここにはある。まして、二十歳の、まさに、未だ青年にとどかぬ若者の作品となれば、読者への衝撃はいっそう大きい。
この歌集に、序文として掲載されている、三島由紀夫の文章の一部を引用する。
「歌には残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく 人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、血の比喩として使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や露や、さういふものが明白な肉感世界の象徴であり、なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。ところで、言葉は、象徴の機能を通じて、互みに観念を交換し、互みに呼び合ふものである。それならば、血や肉感に属する残酷な言葉の使用は、失はれる抒情を、やさしい桜や紅葉の抒情を逆に呼び戻す筈である。春日井氏の歌には、さういふ象徴言語の復活がふんだんに見られるが、れわれはともあれ、少年の純潔な抒情が、かうした手続をとつてしか現はれない時代に生きてゐる。現代はいろんな点で新古今集の時代に似てをり、れわれは一人の若い定家を持つたのである。」
「一人の定家を持つた。」というのは、詩歌の世界においては、最高の賛辞である。春日井建歌集『未青年』は、その意味でも空前絶後の一巻であった。
その華麗で奔放な語彙の中には、当然、人名がいくつも出てくる。
たとえば、これらの歌がそれにあたる。

一首目はプラトンの書を読み、そこから受けた官能的な感覚を「泡立ちやまぬ若きししむら」という肉体感覚で受けたところに、圧倒的な独自性がある。
二首目は天才的な画才と悪魔的な小説を残して夭折した村山槐多に、春日井建自身のイメージを重ねている。疾風にしなう若木もオカリナも、少年期の純粋な生態ではある。しかし、槐多の内部にも春日井建の内部にも、そういった、普遍的な青春の公式にはあきたらず、過剰 なまでにはみだしてゆく、デモニッシュな表現意志が秘められている。この一首はその過剰さが、まだ、あふれだす以前の幸福な一時期を村山槐多と自分とをダブルイメージにすることで、もう戻れない無垢な時間をかえりみているように思う。
三首目はすでに、過剰さがひとつの嗜好を発現している。廃船とヴェルレーヌの配合は、現在の目から見れば、陳腐とも感じてしまうのだが、設定としては、まさに、三島由紀夫の小説の場面を連想させる。絵画にして見てみたい気もする歌だ。
四首目のミケランジェロの歌は、私が一九七二年に初めて春日井建の短歌を読んだときに、強烈に脳裏に刻み込まれた一首であった。「肉にひそまる修羅まだ知らず」というフレーズのショックは、初読後、数十年経った現在でも、私の中ではいっこうに衰えずに、熱いカオスを形成している。ちなみに、もう、一首、初読時に衝撃とともに刻み込まれた歌は次の一首。

歌集『未青年』の中では、ミケランジェロの歌と同じく「奴隷絵図」と題された一連の中にある。当時、十九歳だった私は、すでに十数年前に、今の自分の年齢と同じときに、これほど鮮烈な短歌をつくっていた才能に、正直なところ震撼させられる思いだった。
さらに、『未青年』の中の、人名の読み込まれた作品を挙げてみよう。

フランソワ・ヴィヨンは十五世紀のフランスの詩人。無頼な性格であり、何度か投獄され、刑はのがれたものの、絞首刑宣告も受けたりしている。当然、この歌の中の少年は、ヴィヨンの詩歌の無頼な匂いに酩酊しているわけである。あるいは、ヴィヨンと同じ血が自分の肉体に流れていることを実感していたということでもあるかもしれない。
二首目は、アベ・プレヴォの「マノン・レスコー」のイメージを借りた一首。ファム・ファタールであるマノンは君なのか私なのか、同性愛の気分も一首全体に流れている。ただ、四首目のサロメの歌と同じように、春日井建は、自分自身はマノンやサロメといった魔性の女に自分自身を擬しているように私には思える。ひして、そう読むことで、一首の倒錯性も残酷さも増すように思える。サロメの歌を少年同士の愛の姿態であると想像すると、その妖艶さは無類である。
ゴッホ忌の歌は、ゴッホの絵画のイメージから発想したものだろうが、想像力の飛翔という点で、他の作品にはやや劣るのではないか。「太陽の金糸に狂ひみどり噴く」という修辞は、まさに、過剰さの典型であり、良くも悪くも春日井建の特徴が出ていることは確かであるが。
ジャン・コクトーは詩人で、小説家で、劇作家であり、映画もつくった。彼は二十歳の頃に出版した詩集が認められた早熟の天才であり、春日井建もまた、そういう部分に、自負をこめた親近感をもっていたにちがいない。コクトオはやはり早熟の天才レイモン・ラディゲと親しく、ラディゲの早逝のショックから、アヘンを常飲するようになったといわれている。この歌には、もちろん、そのエピソードが下敷きとして使われているわけだ。「われの頬も燃ゆるを」という結句は、三角関係すらも想起させる。
これらの歌を少々早熟な少年の、想像力の暴走だとしか思えない人は、ついに、詩歌とは無縁な人なのだろうと言わざるをえない。
言葉によって、どれだけ、遠く高く複雑な世界を構築することができるのか。歌集『未青年』は、春日井建なる少年が挑んだ、文学としての詩歌の果敢なる結実である。その結晶度の緊密さ、色相の華麗さは、現在も尚、劣化などしていない。
春日井建は、一九七〇年に、『未青年』以後の作品を『行け帰ることなく』と題して、『未青年/行け帰ることなく』なる一種の全歌集を上梓し、その後、約十年間、短歌の世界を離れる。その後、一九七九年に、短歌の世界に復帰後は、第一線の歌人として、年齢に相応の深まりをもった、独自の短歌の世界を展開して行き、二〇〇四年五月二十二日に六十五歳で逝去する。
十代後半のあまりにも鮮烈な才能の輝きのみで終わらず、十年の間隔ははさんだものの、短歌への帰還し、新たなオリジナリティにみちた世界を築きえた、ということでは、ジャン・コクトーと似ていると言ってもよいのかもしれない。
帰還以後の春日井建の短歌世界に関しては、また、別の機会に紹介してみたいと思う。
了

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