
今夜から千夜千冊「連環篇」を始めることにした。放埓篇・遊蕩篇につづく第3ステージになる。これがどういうものか、どういうものになるかは、しばらくこの欄を覗いてみてもらわないとわからない。あいかわらず原則としては一夜に付き一冊を、また一人の著者に付き一著書一作品とりあげるけれど、そこから何かが連なり、重なり、分岐し、多様化し、舞い戻り、また飛躍して、少しずつ連環していくはずだ。
そのため、ときには長めの千夜千冊になったり、ときには高速の一夜になったり、一冊の話なのに何冊もの中身が暴露されたりすることがあるだろう。かつて583夜に『草枕』をとりあげ、980夜のグレン・グールドのところでまた『草枕』にふれ、さらに1309夜の『風呂で読む漱石の漢詩』でまたまた『草枕』に交差したように、一冊への介入が別々の角度の異なる夜をもって、ドラキュラの胸に杙を打つように、何度も突き刺さっていくというこもおこりうる。
まあ、どうなるかはしばらく進んでからのおたのしみということにする。ぼくだってどうなるかなんて、予測しきれない。
それからもうひとつ、連環篇では参考情報や付属データも、ちょっとは加えてみることにする。これまで著者の経歴などを本文に入れこまないままになることがあるのだが(全集『千夜千冊』ではすべて補充したが)、連環篇ではそんな無礼なことをしないようにしたい。
書物は著者だけでできているものではない。そこには編集者も写真家も装幀者もいる。そういう本づくりの職人さんたちも、わかるかぎりはできるだけ掲載したい。ほんとうは当該書物の写真もいろいろ撮影をしてフォトジェニックにも虫眼鏡的にも紹介したいのだが、これは「本座」のスタッフの諸君の努力次第なので、なんとも言えない。
書物の写真というもの、いまのところ十文字美信(1109夜)が全集『千夜千冊』で撮ってくれたものを頂点とはするものの、なかなか傑作にはお目にかかれない。できれば、読者諸君からの挑戦も待ちたいと思う。
さて、ハレの「連環篇」の第一冊目は、レナード・ムロディナウの『たまたま』にした。予測なき第3ステージに入った千夜千冊が、たまたまの一冊から始まるもいいだろうという気分で選んだ。
もっとも原題は“Drunkard's Walk”だから、「酔っぱらいの足取り」つまり「千鳥足」といったところで、こちらのタイトルのままだと最初から酩酊しているようで、連環篇の第1冊目にするのは憚られたかもしれない。だから、この原題を『たまたま』という邦訳タイトルにしたのは、たいへん有り難い。うまかった。ダイヤモンド社はこの本の前に、ナシーム・ニコラス・タレブの“Fooled by Randomness ”を『まぐれ』と邦訳していたから、これはそういうカジュアル型の翻訳編集方針なのだろう。
ちなみに『まぐれ』のほうは、不確実性科学の大学教授にしてトレーダーとしても知られるタレブが書いたもので、こちらは金融市場における「偶然」を相手に、切れ味のよい趣向で組み立てられていた。かなりおもしろい。タレブは『まぐれ』から3年後、金融工学の過信をこっぴどくやっつけた『ブラック・スワン』(ダイヤモンド社)を書いたから、こちらのほうでタレブの名を知ったビジネスマンも少なくないだろう。『ブラック・スワン』は実は『まぐれ』の続編なのである。
本書もやはり「偶然」(たまたま)や「まぐれ」(あてずっぽ)を相手に趣向を凝らした本になっている。ただし、こちらの著者のムロディナウのほうは、カリフォルニア大学バークレー校(かつてはぼくがアメリカで一番好きな学校だった)で物理学を修めて、CALTECやドイツのマックス・プランク研究所にいた理論物理学者である。金儲けが嫌いではなさそうだが、トレーダーではない。
CALTECのときは例のリチャード・ファインマン(284夜)のもとにいて、ファインマン先生にぞっこんになっている。のちに師に代わって『ファインマンさん、最後の授業』(岩波書店)を書いたほどだ。それなら、ムロディナウはれっきとした学者サンの道を歩いてきたのかというと、実はそうでもない。ちょっと変わっている。
1954年のシカゴ生まれで、いまは55歳。それまではれっきとした学者生活をおくっていたのだが、31歳くらいのときに突然思い立って6000ドルと映画シナリオをポケットにつめこんでロスアンジェルスに引っ越すと、『スタートレック』などのテレビ脚本を書きはじめ、40歳になるとコンピュータゲームの会社を起こして、スピルバーグ映画やディズニー映画にいくつもソフトを提供した。映画フリークでもあったのである。
だから大学教授の道からはドロップアウトしたのだが、ではドロップアウトしただけかというと、そうでもなくて、ファインマン先生の代わりをしただけでなく、なんとスティーブン・ホーキング(192夜)をたきつけて『ホーキング、宇宙のすべてを語る』を共著して、その“道”での科学的理解力の高さを誇った(その印税で大儲けもしている)。ぼくは読んでいないが、『ユークリッドの窓』という著書もあるようだ。
これだけでも多才多能な男だということになるが、ムロディナウには本書を書くにあたっての、もっとドラスティックな「たまたま」もかかわっていた。2001年の9・11のときには例のワールドトレード・センターにいたそうだ。そして、その後はふたたびCALTECに返り咲いて、学者に戻った。9・11がどでかい「たまたま」になったのである。
こういう「偶然」や「不確実」をめぐる本を紹介するのは、けっこううきうきする。ここからさまざまな本が四方八達して、ぞろぞろ数十冊が踵を接しかねない。いや、マジ本ばかりではない。占いやオカルトや擬似科学に類するドジ本もつながってくる。
不確かなことをめぐっては、世の中に擬似科学やオカルト科学めいたものがけっこうはびこっていて、「偶然」や「不確実」にはどんなルールがひそんでいるかはわからないことが少なくないのに、それをネタにずいぶんあくどい宗教教団や経営コンサルタントやファシリテーターもはびこっている。
けれども大衆も不確かなことやトンデモ本は大好きで、それが気になって動いているとおぼしい現象や行動は、迷信から星占いまで、シンクロニシティ(805夜)からセレンディピティ(1304夜)まで、どっさり、がっさりあとを断ちそうもない。
ぼくも「偶然」や「不確実」は嫌いではない。それがなかったら、歴史も芸術もない。しかし、それをどう理屈にするかということになると、なかなか出来のよいものは少なくなってくる。うさんくささも拭えない。

松丸本舗の「本相」掲示板。
松岡正剛が出版界の今を見極め、
リアルタイムに相場を動かしていく。

『たまたま』と『まぐれ』は、
「今週のタイトルネーミング best1」に選ばれている。
(11月3日時点)
だいたい、世の中、何が「たまたま」でおこるかはわからない。そのため、何かにつけて「運がよかった」とか「不幸にも」といった常套句が使われる。「いやー、残念なことでしたね。また機会がありますよ」と言ってはみても、そういう機会(チャンスやオケイジョンやオポチュニティ)が何によってめぐっているのか、実は誰もよくわからないはずなのだ。
ところが、世の中と人生は、たいていその機会の軌道をこそこそめぐっているとしか見えないようになっている。
しかしながら、それを「運」とか「虫の知らせ」というふうにみなせば、かつてメーテルリンク(68夜)がさんざん警告したように、運命の女神などどこにいるのかわからないのだし、仮にどこかに女神がこっそり隠れていたのだとしても、その女神がいつ“いないいないバー”で微笑んでくれるのかなんてことも、とうてい知る由もない。気が付けば、“青い鳥”は一番身近なところにいたということにもなりかねない。
だったら「運」や「幸運」などに期待せずに、自身の周辺に心を向けなさい。そのほうがずっと志が高かったということになる。
また逆に、九鬼周造(689夜)の言うように、すべて心の出来事は「偶然性」から開示されるのだとすれば、それは「たまたま」であることが大事なのではなくて、ふだんから同一性などを求めずに「異質性との出会い」を求める意思こそが重要だったということになるわけで、そういう覚悟を決めるなら、むしろ「はかなさ」とか「せつなさ」を実感していたほうがいいということになる。「世界の中心は機会から逸(そ)れている」のだと感じる知性こそが、実は「粋」なんだというわけだ。
それはそれ、とはいえ賭博や株の売買やマーケティングには、なんとか「たまたま」の奥にルールを見いだしたい。できれば、がばがば儲けたい。そこで、みんながいっぱしの確率に手を出すのだが、さあ、それがまことにでたらめだったのである。
2002年、ダニエル・カーネマンという科学者にノーベル経済学賞が授与された。経済学賞ではあったが、カーネマンは心理学者だった。彼は長年にわたってスタンフォード大学の認知科学者エイモス・トヴァスキーと「ランダムネスについての誤解」を研究し、その成果が認められての受賞になった。トヴァスキーはその栄誉にあずかることなく亡くなった。
カーネマンとトヴァスキーが研究したのは「平均回帰」という現象である。どんな一連のランダムな事象でも、ある特別な事象のあとにはありきたりな事象がおこるというものだ。
二人がそんな研究に没頭したのは、イスラエル空軍の飛行教官たちに特別講義をしたとき、「前向きな行動に報酬をあげることは効果があっても、失敗を罰するのは効果がない」と言ったところ、かれらがいっせいに反論したことに端を発していた。「われわれは生徒のみごとな操縦を必ず褒めるようにしていましたが、すると次回は決まって悪くなるんです。ところが失敗を怒鳴ると、たいてい次の操縦がよくなるんです」と言うのである。
これがきっかけで、二人はいろいろ調査と研究を重ね、怒鳴ったことが改善をもたらしたのではなく、そこに「平均回帰」がおこっているだろうことを突き止めた。そこには操縦成功か操縦失敗かを“何かの因果関係”に結びつけるものなどなくて、ただ確率が支配していたのではないかというものだ。しかし、二人の確率論は、世の中のジョーシキが想定できるような確率ではなかった。
ぼくが『読書編集術』という新書を、二つの出版社で同時に刊行したとしよう。内容も体裁もまったく同じなのである。もっともこれでは区別がつなかないので、A本は表紙に赤い丸を、B本には青い丸をつけるデザインにした。それでどちらの本が売れるかという数学モデルをつくったとしよう。
ふつうなら、『読書編集術』が発売数カ月で10万部売れたとすれば、赤本・青本はだいたい半分ずつか、どちらかがちょっと多いという予測をしたくなる。このモデルは、ぼくの本を買う読者がA本ならばコインの表が、B本ならコインの裏が出たというモデルに似ていると思ってもらっていい。
そこで、これを確率計算してみると、A本とB本がほぼ同じような売れ行きで一進一退するというプロセスは、数学的にはまったく出てこないのだ。A本とB本が連続的に一進一退する確率より、どちらかが連続的に売れる確率のほうが88倍も高いのだ。
そのよく売れたほうの新書が、仮に赤丸デザインだったとしよう。そうするとこの売れ行き現象を見た者は、「赤丸こそ世間の関心をひくのだ」という結論をもつ。あるいはそういう仮説をたてる。
しかし、残念なことに、ここにはどんな因果関係もなかったのである。そのように世の中の出来事の推移を因果づけて仮説をたてるのは、どんな確率論からも導き出すことはできないということを、カーネマンとトヴァスキーは警告したのだった。
世間は、平均的なことがおこっている現象にはとくにルールははたらいていないだろうが、何かの著しい現象がおこっていることは、たまたま偶然におこったか、さもなくば何かのコントロールがはたらいているとみなしたがるものだ。少なくとも、そこにはまだ発見されていないパターンが隠れていると思いたがるものだ。
こうして、チョコレートミルクセーキを一週間に2回以上飲むと心臓病に効く、赤い商品を入口の右側の棚に置くよく売れる、あの山はUFOが出やすい山だ、ナマズが暴れると地震がおこるといったことが“信用”される。認知科学で「可用性バイアス」と呼ばれる。
本書は、これらの見方がいずれもまったくおかしいということを摘発した。平均的におこっていることも、著しいことがおこっているときも、確率論からみればそれらはたんにそれまで継続しておこっていたランダムな現象の結果だというのだ。
われわれは、多くの事態の中にランダムネス(randomness)が作用しているということを、なかなか理解できないらしい。「たまたま」も「偶然や幸運だけではおこらないだろうこと」も、実は偶然の介在とはまったく関係ないのだということが、理解しにくい。認知にあらかじめバイアスがかかってしまっているからだ。

「Xと0の配列のランダムな配列」
無作為な文字の並びであるため、 連続文字(太字部分)に
どんな意味づけをしてもそれは誤解となる。

「色面のパターンによるモザイク画」
単なる四角形の配列でも、特定のイメージに同化させ、
無意識に意味を付与してしまう。
(空間的なパターンもときに人を惑わす)
科学や数学の分野では、ものごとが酔っ払いの千鳥足のようにふるまう現象のことを「ランダム・ウォーク」(random walk)という。
ランダム・ウォークはどこにでもおこっている。そよ風の吹き方もハリケーンの暴れ方もランダム・ウォークだし、水にインクを一滴垂らしてもランダム・ウォークはおこる。酔っ払いがハシゴ酒をしたくて町をさまよい歩くのもランダム・ウォーク、ポーカーで2ペアが出るのもランダム・ウォーク。そもそもサイコロをふって出る目がランダム・ウォークなのである。
この用語が最初に数学的に使われたのは、1900年にフランスの数学者のバシェリエがパリの株や債権の価格の動向変動を計算してみたときだった。金融ゲームや賭け事はいつも新たなルールを発見させるのである。パスカル(762夜)以来、いや、古代ローマ帝国以来。
で、問題は、そのランダム・ウォークが進んだどこかの一点を、事前にどのように予測できるかということになる。みんなが気になるのはそこなのだ。けれども、その予測をしようとしたとたん、またその予測にもとづいた行動をとったとたん、そこに「確率」(probability)という厄介な数学が待ちかまえていることになる。
キケロが「プロバビリス」と名付け、さらに「プロバリスこそこの世の指針である」と書いた、あの確率という魔物があらわれるのだ。しかし長らく、このプロバリスの正体に何がひそんでいるのかが、わからなかった。

「パスカルの三角形」
パスカルが創案した数列。
あるグループから特定の対象を選ぶ方法が
何通りあるかを知りたいとき役に立つ。
アメリカ人なら誰もが知っている「マリリンに聞け」というQA形式のコラムがある。1986年に登場して、いまだに人気を誇っているらしい。「株式市場がその日の取引をおえたあと、株の上昇・下落にかかわりなく、なぜみんなが拍手をしているのでしょうか」「友人が二卵性の双子を身ごもりました。少なくとも一人が女の子である確率はどのくらいですか」「スカンクの死体の脇を車で通ると、臭いが10秒くらいあとになってやってくるのはどうしてか」というようなイカニモ質問が次々に寄せられ、これにマリリン・ヴォス・サヴァントが片っ端から答えるというものだ。
マリリンはギネス認定のIQ228の持ち主なのである。こんな女性は世界にめったにいない。イカニモ質問に片っ端から応えるに、こんなふさわしい女神はいない。
あるとき、マリリンに次の質問が寄せられた。テレビのクイズ番組で、勝った回答者が3つのドアの選択権をもった。司会者からはAドアには自動車が、Bドアにはヤギがいるのが見えていて、Cドアに何が待っているのかはわからない(たいていは洗剤セットなどがあるらしい)。
回答者はそのうちの一つを選んだ。そこで司会者は、開けなかったドアの商品も見て、「ファイナル・アンサー?」と聞く。ドアの選択を変えてもいいチャンスを与えるのだ。このとき、回答者はドアの選択を変えたほうが得策かどうか。これがマリリンへの質問だった。
マリリンはただちに、選択を変更したほうがいいと答えた。ところが、この判断にアメリカじゅうの雀たちが騒然となったのである。みんなはマリリンを初めて疑ったのだ。どう見ても、有利な確率は3分の1ずつであるはずだ。変更したからといって有利になるはずがない。そう、みんなが感じた。「あなたはヘマをした」という数学者たちもいた。マリリンは窮地に追いやられた。
しかし、しかるべき研究機関がコンピュータ計算をしたところ、選択を変更するほうが2:1でずっと有利だったのである。マリリンが正しかったのだ。
アメリカの大衆や数学者がまちがい、マリリンが正しかったのは、なぜか。プロバリスの正体が段階的に変化することを勘定に入れるかどうかが、そのちがいをつくったのだ。
回答者がAのドアを選んだとしよう。司会者はそれを知ってからBとCのドアへの変更をするかどうかを促したのだから、まずこれは完全にランダムなプロセスではなくなった。
それでもここには、回答者の選択がたまたま正しかったという「まぐれ当たり」が動いていた場合がある。この場合は、残りのドアに変更するのは損だけれど、もともと「まぐれ当たりのシナリオ」は確率3分の1なのだから、このあとドア変更をしようとしまいと、回答者はずっと3分の1の確率世界にいることになる。だったらここでくよくよすることはない。
一方、最初に選んだドアがスカだった場合は、回答者はすでに「見当ちがいのシナリオ」に確率3分の2で踏みこんだわけである。ここで司会者が促すのは残り二つのドアなのだから、この時点では司会者の関与に新たなプロバリスが加わったということになる。回答者のプロバリスは3分の2のままで、そこに司会者の介入という新たな2分の1のプロバリスが加わった。最初のランダムネスはここで人為的に変更されたのだ。それならくよくよしないで、変更に乗ったほうがいい。マリリンがどう考えたかはわからないが、事態は以上のように進むはずなのである。
ようするに、回答者が「まぐれ当たり」のシナリオでいいと最初から決めているか、「見当ちがい」のシナリオにいるんだと思うかで、変更するかしないかは変わるのだ。
確率の問題が難しいのは、人々が「見たい」と思っている期待の立場がプロセスに関与してしまうからである。そこに期待値という別のバイアスがかかるから、確率に対する素人解釈がまかりとおるのだ。世の中がランダムネスの作用に気が付かなくなる理由の大半がここにある。
本書は、このことを伝えるにあたって、読者もだんだん千鳥足になるような効果に痺れるように書かれているという点で、よくできている。エピソディックな解説もふんだんにある。さすがに映画シナリオを手掛けてきただけはあるし、ファインマンやドーキンスの代わりをする執筆編集能力もある。けれども、確率とは何かという数学的な解明を期待した読者には、いささか不満がのこるだろう。
が、ぼくが思うには、たんなる確率計算に詳しくなりたいなら専門的職能者になるだけのことで、確率の思想などに関与しないほうがいい。本書『たまたま』も、タレブの『まぐれ』も、確率心理学とでもいうべき新たな領域に光をあてたのであり、その当て方が斬新だったのだ。どういうふうに斬新かは、本書を小説のように読むとよくわかる。まあ、試してみられたい。
二つのおまけを加えよう。
ひとつ。ジョージ・スペンサー=ブラウンがいかにユニークな数学者であるかということは、大澤真幸(1084夜)がずいぶん熱心に探求したので知っている諸君もいるだろう。いずれ、そのあたりの本もとりあげたい。
そのスペンサー=ブラウンは、0と1とが10の100万乗以上並んだ数列には、0が連続して100万個並んでいる箇所が少なくとも10カ所は存在するはずだということを、初めて指摘した。一般的な予測をくつがえすものだったのだが、これによってスペンサー=ブラウンが何をあきらかにしたかというと、プロセスがランダムであることと、ランダムに見えるプロセスを生成することとは違うことだということである。
もうひとつ。こんなことが、あった。音楽プレーヤーiPodにはランダム・シャッフリングのプログラムが入っている。ところが、同じ歌が同じミュージシャンによって繰り返し演奏されるのを聞いたというユーザーがあらわれて、iPodに文句をつけたのだ。「シャッフルがランダムになってない」という文句だった。
そこで、スティーヴ・ジョブスはもっとランダムな感じにするために、工夫をすることにした。どんな工夫をしたのか気になったしつこいジャーナリストが質問をした。ジョブスが答えた、「ちょっとランダムではないアルゴリズムを加えるようにしたんだよ」。
【参考情報】
(1)本書のタイトル『たまたま』を、ぼくは「松丸本舗」本相コーナーの「今週のタイトル・ベスト1」に選んだ。本書の発行日は9月17日で、「松丸本舗」のオープンが10月22日だったからだ。編集担当は廣畑達也さん。
(2)本書は索引が充実している。これはタレブの『まぐれ』にも言えることで、『まぐれ』には「図書館へ行く」というたっぷりした注記までついている。確率論的科学の香りを嗅ぐにはもってこいだ。こちらの編集担当は中嶋秀喜さん。
(3)翻訳の田中三彦さんについては、1305夜
のアントニオ・ダマシオの『無意識の脳・自己意識の脳』(講談社)でも紹介したように、ぼくが工作舎時代に科学書翻訳を頼んだ仲間だった。東工大生産機械工学の出身だ。
(4)確率論の本でおもしろいものはない。入門書もつまらない。たとえば『図解確率』や『図解確率モデル』(ナツメ社)はいくら見ても参考にはなるまい。1冊だけなら香取真理の『複雑系を解く確率モデル』(講談社ブルーバックス)を薦めておく。
(5)確率論の歴史的な記述なら、小著ながら「ヒストリー・オヴ・アイディアズ」シリーズの『歴史の中の数学』の、ヒルダ・ガイリンガーの『確率・客観的確率論』がいい。ベルヌーイやムベイズの定理などがずらりと出てくる。著者のガイリンガーは、確率頻度論で有名なリヒャルト・フォン・ミーゼスの助手となって、その後はしっかり夫人となった数学者だ。
(6)確率を応用した本はけっこうおもしろい。たとえばジョン・パウロス『確率で言えば』(青土社)、スティーヴン・セン『確率と統計のパラドックス』(青土社)など。


















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