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    <title>必册人</title>
    <link>http://www.honza.jp/author/3</link>
    <description>必册人</description>
    <language>ja</language>
    <item>
      <title>第７柱　国常立尊－７◎天香山と神武革新の行方</title>
      <link>http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=2146</link>
      <description>
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi_7_7_image_00.gif&quot; alt=&quot;takahashi_7_7_image_00.gif&quot; /&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;#12288;国常立尊（クニトコタチノミコト）は日本文化が大陸から自立しはじめた中世いらい、神道の中核をになう神とされ、近代には国家神道に対抗した神学において尊重されましたが、古代の倭国（わこく）の形成とも無縁ではなかったのです。それを象徴するように、大和三山の天香山（あめのかぐやま：天香久山）の頂上に国常立尊（クニトコタチノミコト）を祀る国常立神社（橿原市南浦町）の社祠があり、高龗神（タカオカミノカミ）を祀る高龗神社の社祠と並んで南面して佇（たたず）みます。この国常立神社が奈良盆地のある北ではなく、吉野方面の南を向くことにも意味があるようです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;国常立神社に併祀（へいし）された高龗神は、伊弉冉（イザナミ）が亡くなる原因となった火の神、迦具土神（カグツチノカミ）を、伊弉諾（イザナギ）が斬ったときに滴（したた）った血から生じた神で、荒ぶる竜神です。この高龗神は大和の国の水を支配するとされ、雨乞いの神として崇敬されてきました。その祠（ほこら）の前、深さ１ｍほどのところに壺が埋められ、その水を替えると雨が降ると伝えられ、この山は天降山（あめのふるやま）、天指山（あめのさしやま）とも呼ばれていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;その表記は、『日本書記』では天香山に統一されますが、『万葉集』などでは天香具山、天高山、天香来山、天芳山、天芳来山、春香山などと表記し、中世には天香久山と記されることが多く、それらがどのように音読されたかは不明です。しかし『古事記』の倭武尊（ヤマトタケルノミコト）の歌謡に「阿米能迦具夜麻」という表記があり、これが『日本書記』の天香山と一致することから、これに似たイメージの山の多様な表記を「あめのかぐやま」と読むことにしたのです。しかし天芳山、春香山のような表記には中国の神仙が遊ぶ蓬莱山（ほうらいさん）のイメージが投影され、今でいえばJ-Popで「愛」をわざと「ラブ」と読んで楽しむように、音読した可能性もあります。これらを念頭におきつつ、ここでは「天香山」と書いて、「あめのかぐやま」と読むこととします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;国常立尊（クニトコタチノミコト）を山頂にいただく天香山（あめのかぐやま）は、日本神話において、神武天皇の大和制圧、すなわち倭国の発祥に深く関わっていました。吉野の山間を北上すると、目の前に三つの小高い山、天香山、畝傍山（うねびやま）、耳成山（みみなしやま）という大和三山があらわれます。畝傍山、耳成山は地中のマグマが急速に押し上げられた円錐形の山ですが、天香久山は南から北に突き出す吉野の龍門山系が突き出した丘陵の先端部にあたり、その山頂付近は地下深くでゆっくり冷やされたマグマが地殻変動で隆起し、地表に出た花崗岩が露出しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;天香久山に登った人なら、だれでも気づくことですが、この小さな丘そのものが擬死再生（ぎしさいせい）の場のモデルになっています。天香山は本来は天上の高天原（たかまがはら）の山です。太陽の女神、天照大御神（アマテラスオオミカミ）が岩戸隠れしたとき、神々は天児屋命（アメノコヤネノミコト：中臣氏の祖）と太玉命（フトダマノミコト：忌部氏の祖）は天香山の波波迦（ははか：朱桜）を燃やし、鹿の肩甲骨を焼いて秩序の復活を占ったといいます。これが太占（ふとまに）のはじまりとされるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そして太玉命は天香山（あめのかぐやま）の五百箇（いおつ）の眞坂樹（まさかき：榊）を根こそぎに掘り取って、八尺瓊勾玉（やさかにのまがたま）、八咫鏡（やたのかがみ）、白幣（しろにぎて）と青幣（あおにぎて）をつけ、天児屋命が祝詞（のりと）を唱え、天宇受売命（アメノウズメノミコト）が笹を持って陰部をむきだしに踊りました。これは冬至に衰退した太陽を復活させる儀礼です。『阿波風土記』の断片に、そのような儀礼の場となった天香山が地上に落下して、阿波（徳島県）の天山（あめのやま）になり、その破片が大和に飛び散って、香山（かぐやま）になったとします。天香山はそれ自体が神体で、四座の神が鎮座し、天香山坐四処神社（あめのかぐやまにいます・ししょじんじゃ）とされています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;天香山（あめのかぐやま）の北麓に天香山坐櫛真智命（アメノカグヤマニイマス・クシマチノミコト）を祀る天香山神社（あめのかぐやまじんじゃ：橿原市南浦町）があります。この神は記紀に記されませんが、太占（ふとまに）にあらわれた占いの神とされ、社域に波波迦（ははか・朱桜）が植えられているのです。そこから天香山に登れば、山頂に国常立神社、高龗神社があり、山中の小道を南に下ると、伊弉諾尊（イザナギノミコト）を祀る上の御前、伊弉冉尊（イザナミノミコト）を祀る下の御前の祠（ほこら）が木漏れ日にうかびあがります。そこを下ると、天香山の南麓に天照皇大神（アマテラススメオオカミ）を祀る天岩戸神社が薄暗い竹林の中に鎮まります。その竹林に天岩戸を象徴する二つに割れた小さな磐座（いわくら）や地下水がしみだす天真名井（あめのまない）があり、その南にかたちばかりの湯笹明神があって、笹をもって踊った天宇受売命（アメノウズメノミコト）が祀られているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そこから天香山（あめのかぐやま）の西の山際にそって北にめぐると、奈良国立文化財研究所があります。その北に伊弉諾（イザナギ）が伊弉冉（イザナミ）の死を悲しんで泣いたときの涙に生じた神、啼沢女神（ナキサワメノカミ）を祀る畝尾都多本神社（うねおのつたもとじんじゃ：橿原市木ノ本町）の拝殿がさびしげに佇みます。持統天皇はこの社の神に願いをかけたのに、高市皇子（たけちのみこ）が病に亡くなったので、「哭沢（なきさわ）の&amp;#12288;神社（やしろ）に御酒（みき）すえ&amp;#12288;いのれども&amp;#12288;わご王（おおきみ）は&amp;#12288;高日（たかつひ）知らぬ」と詠んでいることから、本居宣長は命乞いの神とし、境内の小さな泉が御神体です。その北隣に粘土の神の健土安比売神（たけはにやすひめのかみ）と祝詞の神の天児屋根命（アメノコヤネノミコト）を祀る畝尾坐健土安神社（うねおにいます・たけはにやすじんじゃ：橿原市下八釣町）が鎮座します。このあたりは天香山の北西に突き出した小丘、赤埴山（あかはにやま）の麓（ふもと）で、社域の土は真っ赤な粘土質です。これを焼くと赤い土器ができるのというのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;逆に飛鳥から山あいを北に出ると、目の前に大和三山があらわれ、天香久山に突き当たり、そこに登ると奈良盆地が一望されます。この大和三山はほぼ正三角形に位置し、その三山の地が「磐余」（いわれ）とよばれます。「磐余」は、『古事記』では、日向（ひうが：宮崎県）から東征してきた「若御毛沼命」（ワカミケヌノミコト）は熊野から吉野をへて北上し、磐余（いわれ）に出て、「神倭伊波礼毘古命」（カンヤマト・イワレヒコノミコト）と称して初代天皇に即位したところです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この初代天皇になった英雄を、『日本書記』の「神代紀」本文ではたんに天皇（すめらみこと）と尊称しますが、その第１の１書では、「狭野尊」(サノノミコト)が「神日本磐余彦尊」（カンヤマト・イワレヒコノミコト）になったとするのです。その第２の１書、第３の１書、第４の１書では「彦火火出見尊」（ヒコホホデミノミコト）が「神日本磐余彦火火出見尊」（カンヤマト・イワレヒコ・ホホデミノミコト）、第４の１書では「磐余彦火火出見尊」（イワレヒコ・ホホデミノミコト）を称して天皇（すめらみこと）に即位したとします。この初代天皇は、淡海三船（おうみのみふね：722～785）が定めた漢風諡号（しごう：死後に贈られる名称）では「神武天皇」（じんむてんのう）、和風諡号では「始馭天下之天皇」（はつくにしらすすめらみこと）とされるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;初代天皇には「若御毛沼命」（ワカミケヌノミコト）、「豊御毛沼命」（トヨミケヌノミコト）、「狭野尊」(サノノミコト)、「彦火火出見尊」（ヒコホホデミノミコト）の４種の名があります。狭野（さの）は出生地の名、彦火火出見は日向神話の海の女神と結ばれた山幸彦です。そして若御毛沼命、豊御毛沼命の「御毛」（みけ）が「御食」（みけ）とすれば、それは神の社（やしろ）や政府を構成する貴族に貢納する「贄」（にえ）をささげるものを意味します。私見を交えて推測すれば、初代天皇とされた英雄は海浜の狭い土地に生まれ、天孫と海神の霊威をあわせもち、神社に隷属して、神に海産物、鳥獣、野菜、果物、酒、塩、水などの御食（みけ）をささげる人々、「贄人」（にえびと）の代表者と解されます。「贄人」は海の民、川の民のネットワークによって結ばれていました。ということは、大和にすでに王権が成立していて、初代天皇はその王権を継承しつつ、「贄人」をまとめて政権交替をはかった人物と推測されるのです。以降、この人物の名を「若御毛沼」（ワカミケヌ）に統一し、その物語に入っていくこととします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;天孫とされる鵜草葺不合命（ウガヤフキアエズノミコト）と海神の娘とされる玉依姫（タマヨリヒメ）の間に生まれた若御毛沼（ワカミケヌ）は豊後水道、瀬戸内から紀伊水道、伊勢方面を結ぶ海民ネットワークを背景に熊野、吉野から磐余（いわれ）に進出した勢力のシンボルでした。その若御毛沼が磐余（いわれ）をめざしたのは、大和に出雲、四国、近畿、中部地方の豪族をネットワークする部族連合国家が形成され、これにとってかわろうとしたからだったと推測されます。大和三山を柿本人麻呂や持統女帝の和歌などの影響で、藤原京がある北側から眺めますが、南側の吉野の方から見た大和三山も重要だと思うのです。それにしても、飛鳥時代以前に天香山から見えた奈良盆地は、今とはまったく異なった景観でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;少し横道にそれますが、奈良盆地の原始古代の遺跡をマッピングした地図を見ると、山々の小高いところに円環状に縄文遺跡が分布します。そして豊かな水田となっている低地を囲むように唐子・鍵遺跡（からこ・かぎいせき）などの弥生遺跡が並び、その外側の山裾に円環状に古墳があらわれます。ところが、４世紀末、奈良盆地の中央の低地の真ん中に島の山古墳（全長190m：奈良県磯城郡川西町）がただ一基、孤立して出現するのです。これを蘇我入鹿（そがのいるか：593～622）の墓とする伝承がありますが、入鹿の時代より200年ほど古く、周濠をめぐらした前方後円墳で、平成６年（1994）にようやく調査され、多数の儀器（ぎき）が発掘されました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi_7_7_image_01.jpg&quot; alt=&quot;takahashi_7_7_image_01.jpg&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
奈良湖の縮退&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;島の山古墳の副装品の中で異彩を放つのが、南海産の貝の腕輸を誇張して緑色凝灰岩（ぎょうかいがん）や碧玉（へきぎょく）でつくった腕輪の模造品で、車輸石（しゃゆせき：オオツタノハ貝・カサ貝）、鍬形石（くわがたいし：ゴホウラ貝）、石釧（いしくしろ：イモ貝）です。この３種類の副装品はおよそ140点におよびます。これらは後世には形式的な副葬品になりますが、島の山古墳においては南海につながる海洋ネットワークの伝統を受け継ぐシンボルのように思われます。さらに奈良盆地を流れる水系のすべてが大和川に合流する「河合」（北葛城郡河合町）に、５世紀後半にかけて河合大塚山古墳（全長215m：北葛城郡河合町川合）を中心とする古墳群が造営されるのです。これは葛城山系から北にせり出す馬見丘陵に接した田園の中に位置し、かつては奈良湖の湖底だった地域です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;近年の地質学の成果を参照すれば、縄文時代には縄文遺跡が分布する山裾の下まで、古奈良湖が広がっていました。そして縄文晩期から弥生時代にかけて地球寒冷化によって古奈良湖は縮退し、その周囲にあらわれた湿地が水稲栽培の好適地となり、弥生集落が出現します。この弥生社会は３世紀から４世紀にかけて相転換をおこして古墳時代へ移行するのです。その背景にヨーロッパのゲルマン大移動に匹敵する五胡（ごこ）の大移動がおこした中華文明の拡散がありました。この地球寒冷化は韓半島、日本列島に多くの沖積地を出現させ、そこに中華文明を導入した大規模な新田開発が進められ、それを推進した指導者を祖霊として記念する古墳が造成されたといえましょう。これが韓半島の三国時代、日本の古墳時代を出現させたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;奈良湖の地質学的研究によれば、島の山古墳が立地する広域な水田は地球寒冷化によってのみ実現したのではないようです。その推定によれば、大和川が河内に流れ落ちる出口の川床がおよそ1.5mから2mほど削られたというのです。これが大和川の水流の侵食のみによるものか、あるいはその川床を人工的に掘削して奈良湖の水を落としたのかは明らかではありません。その謎を解く鍵は島の山古墳、河合大塚山古墳にあると思います。ことに島の山古墳は他の奈良の古墳と異なり、祖霊が鎮まるにふさわしい小高い奥城（おくつき）ではなく、かつての乱流原の中央に地面から墳丘を築きあげているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;私見になりますが、島の山古墳のような孤立した古墳の被葬者は外来者であって、一時的な尊敬を受けた英雄の可能性が高いように思われます。おそらくその被葬者が出現させた奈良盆地の中央部の田園は、５世紀後半に葛城（かつらぎ）に勢力をためた一族から輩出したらしい河合大塚山古墳の被葬者に相続、あるいは奪取されたのでしょう。そして飛鳥時代まで、河合大塚山古墳と法隆寺や藤の木古墳がある斑鳩（いかるが）の間には縮小したとはいえ、かなり広大な湖が残されていたのです。いささか長い奈良盆地の景観の変貌を記しましたが、神武天皇の東征神話を語った語り部たちは、その物語の背景となる天香山（あめのかぐやま）からの景観をどのように想定していたのでしょうか。それによって神武神話が形成された時期が推理できるわけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そこで神武神話にもどりますと、吉野を北上した若御毛沼（ワカミケヌ）は軍勢を休ませ、天上界からの託宣を受けたとされます。それがどこに想定されたかは定かでないのですが、吉野の民俗学者、森口奈良吉や景観学者ともいうべき保田與重郎（やすだよじゅうろう）の見解が通説となって、丹生川上神社中社（奈良県吉野郡東吉野村）の社域あたりとされています。その近辺に宮を築いたらしい若御毛沼は莵田（うだ）の高倉山に登って大和の勢力の様子を知ろうと周囲ながめたと語られます。高倉山も不明ですが、奈良盆地に南流する宇陀川上流に若御毛沼の窮地を救った高倉下命（タカクラジノミコト）を祀る高角神社（たかつのじんじゃ：奈良県宇陀郡大宇陀町）が鎮座する高倉山が知られます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;ここで神武神話の語り部は、後世の人々が過去の情報を整理して語るように、若御毛沼（ワカミケヌ）が見た実景を離れて大和側の布陣を説明し、国見丘（くにみのおか）に八十梟帥（やそたける）が陣取り、女坂（めさか）に女軍（めのいくさ）を置き、男坂（おさか）に男軍（おのいくさ）を置き、墨坂（すみさか）に 炭（おこしずみ）を置くと語ります。これは日本の古代戦争を想起させる資料の１つです。このような軍の構成は東アジアの古い戦争に共通し、中国の殷周の戦争に武器をもって戦う男軍のほかに、女軍が怪異な姿で呪文を唱え、歌舞し、陰部を向けて、敵の戦意を削いだり、動揺を誘発するという記事が見られます。 炭（おこしずみ）も待ち伏せて相手に投げたりする実用ばかりでなく、邪霊を退散させるという呪術的な意味があったようです。この戦争の記述は日本の古い戦争が大陸の古い戦争と同じレベルでおこなわれていたか、あるいは中国の古代戦争を伝え聞いて、失われた古い時代の戦争として描きだしたかのどちらかでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;さらに若御毛沼（ワカミケヌ）の国見（くにみ）は「また兄磯城（えしき）の軍（いくさ）有りて、磐余邑（いわれのむら）に布（し）き滿（み）てり」と語られるのですが、高倉山が吉野のどの山であったにせよ、その山頂からこれらの全貌は見えないのです。これは物語の伝承者が聞き手に向けた場面設定の手助けとして提供された情報です。それはともかく、大和の勢力に備えがあることを察知した若御毛沼（ワカミケヌ）は、どうすればよいかを教えてくれるよう神に祈って眠りにつきます。こんな急場に眠るのは、現代人には奇異に思われますが、これは夢に神の意思を問うためでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;眠りについた若御毛沼（ワカミケヌ）の夢に天神（あまつかみ）があらわれ、「天香山（あまのかぐやま）の社（やしろ）の中の埴（はに：土）を取って、八十枚の天平瓮（あまのひらか）と嚴瓮（いつへ）を造って天神地祇を祭り、嚴呪詛（いつのかしり）をなせば、虜（あた）はおのずと平定される」という託宣をくだしました。「天」（あまの）とか「嚴」（いつ）という接頭辞は「このうえなく神聖な」といった意味で、「呪詛」（しかり）は特定の相手に災いがおこるように神仏に祈ること、「平瓮」（ひらか）は平らな盃（さかずき）のような器、「瓮」（へ）は酒壷です。その神意によれば、天香山の土でつくった盃と酒壷を配した祭壇を設けて呪いをかければ、敵はおのずから滅ぶというのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そこで若御毛沼（ワカミケヌ）は参謀を集めて託宣を実行に移そうとすると、大和側から寝返って陣中にあった弟猾（おとうかし）が天神（あまつかみ）の託宣と同じ見解を述べたので、吉兆として喜びます。ということは、弟猾（おとうかし）は天香山の土に呪術をかけると、災い（わざわい）なり、幸い（さきわい）が生じることを知っていたわけです。このような信仰は知らず知らずに現代におよび、甲子園で敗退した高校球児たちがその土を持ち帰ると再び戻ってくることができるというような風習にもなっています。それはともかく、若御毛沼（ワカミケヌ）の陣から天香山にいたるどの道にも大和側の軍勢がひしめき、そこをどうやって通りぬけるのかが問題でした。そこで軍師の椎根津彦（シイネツヒコ）と弟猾（おとうかし）が箕（みの）をつけた醜い老爺（ろうや）と老婆に変装させて敵の監視をあざむき、天香山の土をとりにいくことになったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;こうして椎根津彦（シイネツヒコ）と弟猾（おとうかし）が敵陣を横切ろうとすると、敵兵は「大醜乎（あなみにく）の老父（おきな）、老嫗（おうな）なる」（なんて醜いじいさん、ばあさんだなあ）と言って大笑いして通しました。これは民俗学において、アジアに共通する山の神が&amp;ldquo;ジジ・ババ&amp;rdquo;にやつして降りてくるという祭りや語りとの共通性が注目されています。こうして二人は無事に天香山の土を持ち帰り、若御毛沼（ワカミケヌ）はその土をこねて「平瓮」（ひらか）と「瓮」（へ）をつくり、丹生（にう）の川上に陟（のぼ）って、山の常緑樹を根ごと堀とり、これを榊として祭壇を設け、天神地祇を祭りました。すなわち高天原でおこなわれた太陽神復活を占った神話と同じく、いわゆる神籬（ひもろぎ）を設けて、倭（やまと）の掌握を占ったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi_7_7_image_02.gif&quot; alt=&quot;takahashi_7_7_image_02.gif&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
醜い翁に変装した椎根津彦&amp;#12288;『前賢故実』より&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この天香山の土をとったところが天香山神社で、そこに太占（ふとまに）の神、天香山坐櫛真智命（アメノカグヤマニイマス・クシマチノミコト）が祀られているわけです。この神籬（ひもろぎ）と伊勢神宮内宮、外宮の正殿の心御柱（しんのみはしら）の構成の相似性が指摘されています。伊勢神宮では忌柱（いみばしら）、天御柱（あめのみはしら）、天御量柱（あめのみはかりのはしら）と呼ばれ、正殿の敷地の中央に半ば埋められた小さな柱です。これは天地を結ぶ柱に見立てられ、北畠親房の『元元集』などに、五色の布を巻きつけ、八葉榊（やつばのさかき）で飾り、その周囲に八百枚の天平瓮（あまのひらか）を積み重ねていると記されます。これは若御毛沼（ワカミケヌ）の勢力と伊勢の贄人（にえびと）の密接な関係が語りにあらわれたともいえましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;さらに若御毛沼（ワカミケヌ）は、「八十平瓮（やそひらか）に水無しに飴（たがね）を造ろうと思う。飴（たがね）ができれば、鋒刃（ほうじん：武力）の威を用いないで、坐して天下（あめのした）を平らげるであろう」といって、飴（たがね）を造ると、自然に飴（たがね）ができたといいます。飴（たがね）は、今でも「たがね飴（あめ）」をつくる菓子屋がありますが、それは米の澱粉でつくられた栄養食です。そして「嚴瓮（いつへ：酒壷）を丹生之川（にうのかわ）に沈めよう。もし魚がすべて醉って流れるなら、この国を定めるだろう」といって、瓮（へ）を川に沈めると、魚という魚が口を開いて浮かんできたと語られ、神の託宣が実現される予兆として全軍を勇み立たせました。そして若御毛沼の軍は、いわゆる「撃ちてしやまん」の歌謡とともに連戦連勝を重ねます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;「撃ちてしやまん」の歌謡は、帝国日本において、皇帥の歌として解釈を施そうとされ、いまだにこれにとらわれて解釈しようとする向きも多く、それでは歌謡の意味に矛盾を生じるばかりで、終句の「撃ちてしやまん」ばかりが強調されるのです。これは戦後にも逆の意味で尾を引き、その内容が見直されることはなかったのです。これらの歌声は古代人の思いのままに素直に聞くべきでしょう。それは規律をもった軍隊の歌というより、むしろ庶民の日常生活が歌いこまれ、若御毛沼（ワカミケヌ）を支持してボランタリーに立ち上がった人々がみずからを鼓舞した歌のようです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;たとえば、国見丘の八十梟帥（やそたける）の陣を攻撃したときの歌謡は、「神風の&amp;#12288;伊勢の海の&amp;#12288;大石には&amp;#12288;這（は）いともろう&amp;#12288;細螺（しただみ）の&amp;#12288;這いもとほり&amp;#12288;撃ちてしやまん」と歌われます。これは「伊勢の海岸の岩に、びっしりはりついた細い巻貝が、うじゃうじゃ這（は）うように、敵を倒すまで戦おう」というわけで、岩に群れる細い小さな巻貝の群れに生命力と団結力を託して歌っています。これは海浜に生活する人々でなければ歌えない歌謡で、若御毛沼（ワカミケヌ）の大きな支持母体が伊勢の海の民だったことを顕彰して、久米歌として歌い継がれたにちがいないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;こうして若御毛沼（ワカミケヌ）の軍は磐余（いわれ）への進出をはかり、大和三山の北の磯城（いしき：奈良県磯城郡）の首長、兄磯城（えいしき）、弟磯城（おといしき）を攻撃しようとします。このとき、弟磯城は八咫烏（やたがらす）が告げた予兆によって若御毛沼に降伏しました。それでも兄磯城は忍坂（おしさか：桜井市忍坂）、墨坂（すみさか：宇陀市榛原町）を守って力戦します。このとき、若御毛沼は「楯並（たてなめ）て&amp;#12288;伊那瑳（いなさ）の山の&amp;#12288;樹（こ）の間よも&amp;#12288;い行き瞻（まも）らい&amp;#12288;戦えば&amp;#12288;我はや飢（う）えぬ&amp;#12288;島つ鳥&amp;#12288;鵜飼（うかい）が徒（とも）&amp;#12288;今助けに来（こ）ね」という歌を軍勢に歌わせて、勇気をふるいたたせたというのです。「伊那瑳山の樹々の間に、楯を並べて敵をにらみつけて戦うけれど、腹がぺこぺこだ、鵜飼たちよ、助けにこい」というわけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;伊那瑳山は宇陀の伊那佐山が想定されたようで、その山麓の八咫烏神社（やたがらすじんじゃ：宇陀市榛原区高塚）から三角錐の山容が望まれます。この歌謡の興味深いところは、若御毛沼の軍の食料補給に鵜飼たちがあたっていたことが歌いこまれていることにあります。これは鵜飼の権利を保障する歌として語り継がれていたようです。こうして、宇陀川流域から大和三山の北、磯城をおさえた若御毛沼（ワカミケヌ）の軍は長髄彦の軍と対陣したとき、雹（ひょう）が降り、金色の鵄（とび）が飛んできて、若御毛沼（ワカミケヌ）の弓にとまって輝き、長髄彦の軍をひるませたと語られます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;このとき、長髄彦は若御毛沼（ワカミケヌ）に使者を送って、「天つ神の子が天の磐船（あめのいわふね）に乗って櫛玉饒速日命（クシタマニギハヤヒノミコト）が降臨し、妹の三炊屋媛（ミカシキヤヒメ）を娶（めあわ）せて、可美真手（ウマシマデ）という後継ぎが生まれた。天つ神の子がどうして二人いようか。どうしておまえは天つ神の子と称して土地を奪おうとするのか」と問いかけました。そして櫛玉饒速日命の天羽羽矢（神威を発揮する蛇のような矢）一本と歩靫（歩射用の矢の容器）を示したのです。これに対して若御毛沼（ワカミケヌ）も同じものを示しました。こうなれば、実戦によってどちらを神が認めるかを判定することになります。このとき、饒速日（ニギハヤヒ）は若御毛沼（ワカミケヌ）を天孫として承認し、長髄彦を殺させたというのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;物部氏の伝承を伝える『先代旧事記』では、長髄彦を殺したのは饒速日尊（ニギハヤヒノミコト）の子、宇摩志麻治命(ウマシマチノミコト)とします。この伝承では、饒速日尊（ニギハヤヒノミコト）は天照大御神が素戔男尊との誓約（うけひ）に生まれた天押穂耳尊（アメノオシホミミノミコト）と高皇産霊尊（タカミムスビノミコト）の娘、万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命(ヨロズハタ・トヨアキツシヒメ・タクハタチヂヒメノミコト)の間に生まれたとし、高天原で天道日女命（アメノミチヒノミコト）と結婚して天香語山命（アメノカゴヤマノミコト）が生まれていたと記されます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;饒速日尊（ニギハヤヒノミコト）は出雲の大国主命の国造り以前に十種の天璽瑞宝(あまつしるしのみずたから：十種神宝)をたずさえ、天香語山命ら二十五神をしたがえて、天磐船（アメノイワフネ）に乗って大和に降臨したというのです。そして長髓彦(ナガスネヒコ)の妹の御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)を妃とし、宇摩志麻治命(ウマシマチノミコト)が生まれたときに亡くなったとします。御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)に天璽瑞宝を形見に残し、天の羽羽弓（あめのははや）、神衣・帯・手貫とともに登美（とみ）の白庭邑（しらにわのむら）に埋葬されたというのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この天香語山命（アメノカゴヤマノミコト）は天香山を想起させ、天香山命（アメノカグヤマノミコト）ともされます。『先代旧事記』は天香語山命が熊野に住んで高倉下（タカクラジ）となっていたと記します。高倉下（タカクラジ）は熊野に危難にあった若御毛沼（ワカミケヌ）に高天原の武甕槌神(タケミカヅチノカミ)から下された韴霊の剣（ふつのみたまのつるぎ）をささげて救出したのでした。これによれば、新たな天孫があらわれて、大和に攻め上り、新たな政権を立てることを知っていたということになります。そして天香語山命の異腹の弟、宇摩志麻治命(ウマシマチノミコト)は長髓彦(ナガスネヒコ)を殺し、若御毛沼（ワカミケヌ）から韴霊の剣を与えられ、天物部(あまのもののべ)を率いて国内を平定して復命したというのです。これが物部氏となります。この韴霊の剣（ふつのみたまのつるぎ）を納め、大和朝廷の武器庫となったのが石上神宮（いそのかみじんぐう：奈良県天理市）でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;『日本書記』は若御毛沼（ワカミケヌ）が軍勢を整えたとし、波哆丘岬（はたおかのみさき：奈良市五条町）、新城戸畔（にきとのはた：大和郡山市）、和珥（わに：天理市和爾町）、長柄丘岬（ながらおかのみさき：御所市名柄）の豪族を討ち、奈良盆地西南部の山岳地帯、葛城の土蜘蛛を制圧したと記します。そして磯城の陣を張った八十梟帥（やそたける）を滅ぼし、磐余（いわれ）に入り、ひそかに天香山の土を採って、多くの平瓮（ひらか）を作り、斎戒して諸神を祀って大地を平らげたのです。こうして若御毛沼（ワカミケヌ）は畝傍山（うねびやま）の東南、大和三山に囲まれた橿原（かしはら：樫の森林）を切り開いて橿原宮を造営します。三輪山に鎮座する大物主神（オオモノヌシノカミ）の娘とされる媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたら・いすずひめのみこと)を妃に迎えて、「神日本磐余彦尊」（カンヤマト・イワレヒコノミコト）に即位したのでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;ここに神武神話を語った語り部たちが想定した奈良盆地の景色があらわれました。この豪族が蟠踞（ばんきょ）した岬、畔は通常は奈良湖の湖畔の地形をさしていたにちがいないのです。これらの地名を結んだ内側に奈良湖が広がっていたことになります。その南部の吉野山系がつきだして形成された天香山を天地の柱とし、そこに若御毛沼（ワカミケヌ）はこの列島を形成した神々を招いて、倭国を構想したとされます。天香山の山頂に国常立尊（クニトコタチノミコト）、北麓に占いの神である天香山坐櫛真智命（アメノカグヤマニイマス・クシマチノミコト）、山中にこの列島と神々を生んだ伊弉諾（イザナギ）・伊弉冉（イザナミ）、南麓に高天原の岩戸神話が設営されるのは、いつの造作かは定かではないのですが、これは神武神話を読み解いて構成されていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;いささか慎重な読み解きになりましたが、近年、発掘が進む不思議な遺跡と若御毛沼（ワカミケヌ）の名にひそむ「御食」（みけ）をささげた「贄人」（にえびと）の行方を加えておきたく思います。その不思議な遺跡とは巻向遺跡です。この遺跡は２世紀末に方形周濠墓を伴って出現し、３世紀末から４世紀にかけて絶頂期を迎え、独自な祭政政治の政庁をそなえ、そばに箸墓古墳（はしはかこふん：奈良県桜井市箸中）が築かれます。そこには三輪信仰や吉備系の祭祀遺物があらわれ、４世紀末には衰退していくのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;巻向遺跡からは、東は関東地方、中部地方、西は瀬戸内、九州からもたらされた貢納品をいれた土器が多数、発掘されています。あるいは箸墓古墳の後円部から吉備（岡山県）に見られる特殊器台・特殊壺、前方部から底部に孔を開けた壺形土師器（はじき）が発見されているのです。土師器（はじき）は巻向に新たに出現した土器です。竪穴式石室に用いられたとされる板石は河内の芝山（大阪府柏原市）の石と判明しています。そして三輪山の大神神社（おおみわじんじゃ：桜井市三輪）は出雲の大国主命の国つくりを助けた大物主神（オオモノヌシノカミ）を祀るのです。これは大和、河内、出雲、吉備の勢力が連携する開拓豪族ネットワークの上に浮上した前期古墳文化の中枢であったのでしょう。それは天孫の櫛玉饒速日命（クシタマニギハヤヒノミコト）の子孫をいただく王朝を形成していました。これは「三輪王朝」というにふさわしいのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;ここからは推測になりますが、神武神話は前期古墳文化に対抗して立ち上がった勢力が語り伝えた物語だったように思われます。前期古墳文化は神裁政治で、神への供物を諸国の首長に求めたのでしょう。こうした体制は稲作集落のネットワークが相互の争いをさけて、大陸から輸入される技術や鉄器の分配システムとして機能したように思われます。これは上納と分配のシステムです。しかしこのシステムは地域の産品を浮き上がらせ、流通を活性化しました。そこに台頭してきたのが「贄人」（にえびと）たちでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;「贄人」（にえびと）の典型とされるのが鵜飼（うかい）と海女（あま）です。神武神話には鵜飼の祖とされる「贄持」（にえもち）がその一行を助ける物語や伊勢をはじめとする「海人」が補佐する物語や歌謡が挿入されています。その道案内をした椎根津彦も、亀の背に乗ってあらわれ、「海の民」の風貌が漂っています。そして吉野山中の尾をもつ人、「井光」（いひか）は鉱山の民を思わせます。これらの「贄人」（にえびと）、すなわち海の民、川の民、山の民こそが倭国の流通業、商業、貿易をおこし、その経済的な自立と海外への進出を可能にしたにちがいないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;若御毛沼（ワカミケヌ）とされた人物がいかなる出自であったのかは不明です。それは弥生文化圏と南海文化圏を結ぶ日向に設定されました。これは日向灘、豊後水道から瀬戸内、紀伊、伊勢の海の民、川の民を背景に「贄人」（にえびと）を糾合した新興勢力であって、もっと言えば、体制変革をなしとげた勢力と推測することもできます。その物語が想定された時代はいつごろなのか。橿原宮の造営にいたる語りから、奈良湖がまだあり、巻向遺跡の衰退期とすれば、４世紀半ばを過ぎたころと推測されます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そのころ、韓半島に高句麗が国内城に遷都し、百済の近肖古王、新羅の奈勿王が即位していわゆる国家を成立させます。そして266年、倭の女王、壹與（いよ）が晋（しん）の皇帝となった司馬炎に使者を送ったという記事いらい、100年ぶりに後世の倭国につながる国際的な記録があらわれます。367年、百済の記録に百済王の使者が倭にいたったことが記されているのです。そして、369年、高句麗が新羅と結んで百済を攻め、倭軍が参戦して高句麗を破り、韓半島の南端部を支配圏においたと記されます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この突然、アジア史にあらわれた倭とはいかなる勢力だったのか、いまだに不明で、韓半島内に勢力を蓄えた倭人集団とも仮説されます。極東の最強国、高句麗を相手に負けない戦いをするには、倭国に生産と流通の革命がおこり、外部への拡張力と冒険的な海洋性、統率がとれた軍事性が備わらねばならかったでしょう。これを実現したのが神武神話の贄人革命(にえびとかくめい)だったのではないでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;けれども、記紀においては、初代天皇は即位するとすぐに亡くなり、その遺骸をおさめた墳墓を築いた記事も、その死を惜しんで嘆く声もなく、物語は芝居が終わって幕がおりた後のように、そっけないのです。初代天皇は何代かに渡り、数人の人物をキャラクター化して、およそ50年に集約して語られているのかもしれません。たとえば、ヨーロッパのアーサー王はいたかいなかったか、中国の国土を定めた大禹はいたかいなかったか。そういうことと同じです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そこにはそのキャラクターの行動や言葉、それを支えた多くのキャラクターなどによって、倭国がまだイメージでしかなかったときの、それが形成されるための理念が語られているのです。この語り部たちが伝えようとしていることを、現代風にいえば、倭国は「贄人」（にえびと）のネットワークに自発したた神の祭祀をモデルにする国家システムだということになります。そして、そのまだ見ぬ倭国を実現させる起爆剤となったのが、奈良湖の大干拓だったとおもわれるのです。そのキャラクラーの一部は奈良湖消滅を記念するかのような島の山古墳の被葬者であるかもしれないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;近年まで、まったく空想であるか、あるいは別なところのイメージを現実に重ねたなどとされてきた「鴨君足人（かものきみ たりひと）の香具山の歌一首&amp;#12288;ならびに短歌」(万葉集：)で終わりたいと思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;天降(あも)りつく&amp;#12288;天香具山&amp;#12288;霞(かすみ)立つ&amp;#12288;春に至れば&lt;br /&gt;
松風に&amp;#12288;池波立ちて&amp;#12288;桜花&amp;#12288;木の晩茂(しげくれ)に&lt;br /&gt;
奥邊(おきへ)は&amp;#12288;鴨妻(かみつま)呼ばひ&lt;br /&gt;
邊つ辺(へつへ)に&amp;#12288;あぢ群騒(あぢむらさわ)き&lt;br /&gt;
ももしきの&amp;#12288;大宮人の&amp;#12288;退(まか)り出て&amp;#12288;遊ぶ船には&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;反歌&lt;br /&gt;
楫棹(かじさお)も&amp;#12288;無くて寂(さぶ)しも&amp;#12288;漕(こ)ぐ人なしに&lt;br /&gt;
人漕がず&amp;#12288;あらくもしるし&amp;#12288;潜(かず)きする&lt;br /&gt;
鴦(をし)とたかべと&amp;#12288;船の上に棲む&lt;br /&gt;
何時の間も&amp;#12288;神さびけるか&amp;#12288;香山(かぐやま)の&lt;br /&gt;
桙杉(ほこすぎ)の本に&amp;#12288;苔生(こけむす)すまでに&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;鴨君足人は、藤原京の大極殿の地所の所有者だったのですが、藤原京造営のとき、移転させられました。これは、まだ奈良湖があった４世紀以前に、実際に藤原京の大極殿の場所から天香山を望んで歌われ、いくぶんの比喩を織り込んだ歌で、鴨氏に語りつがれてきたと考えるのが妥当でしょう。それにしても、その反歌は全く同じアングルであるものの、哀悼の歌のように寂しいのです。天香山(アメノカグヤマ)に立つ国常立尊(クニトコタチノミコト)は、遠い過去から、国家がどのようなものでありたかったを問いかけてもくるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;



    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/31W3dQnPI5L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;大和三山の古代 (講談社現代新書)&quot; /&gt;
            
            大和三山の古代 (講談社現代新書)
            上野 誠
            
                講談社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Z855K2EJL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;島の山古墳 調査概報―大和の前期古墳&quot; /&gt;
            
            島の山古墳 調査概報―大和の前期古墳
            &amp;nbsp;
            
                學生社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41GZtl81NuL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;神武天皇実在論 (学研M文庫)&quot; /&gt;
            
            神武天皇実在論 (学研M文庫)
            林 房雄
            
                学習研究社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/sanninnoshinbu.jpg&quot; alt=&quot;sanninnoshinbu.jpg&quot; /&gt;
            
            三人の「神武」―後漢・光武帝、奴国王、卑弥呼、高句麗・東川王の攻防
            小林 惠子
            
                文藝春秋
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41MA8E2288L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;「神武東征」の原像&quot; /&gt;
            
            「神武東征」の原像
            宝賀 寿男
            
                青垣出版
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51WW4TQQFBL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;神武東征の謎―「出雲神話」の裏に隠された真相 (PHP文庫)&quot; /&gt;
            
            神武東征の謎―「出雲神話」の裏に隠された真相 (PHP文庫)
            関 裕二
            
                PHP研究所
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Y45kqZfZL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;卑弥呼と神武が明かす古代―日本誕生の真実 (シリーズ・古代史の探求)&quot; /&gt;
            
            卑弥呼と神武が明かす古代―日本誕生の真実 (シリーズ・古代史の探求)
            内倉 武久
            
                ミネルヴァ書房
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41FFAKSKFYL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;都市と日本人―「カミサマ」を旅する― (岩波新書)&quot; /&gt;
            
            都市と日本人―「カミサマ」を旅する― (岩波新書)
            上田 篤
            
                岩波書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41dyjDPbgAL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;日本古代史を生きた人々―里の民・都市の民・山海の民&quot; /&gt;
            
            日本古代史を生きた人々―里の民・都市の民・山海の民
            新川 登亀男
            
                大修館書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/hantoutorettou.jpg&quot; alt=&quot;hantoutorettou.jpg&quot; /&gt;
            
            半島と列島・接点の探究 (青丘文化叢書)
            上田 正昭
            
                青丘文化社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/higashiasia.jpg&quot; alt=&quot;higashiasia.jpg&quot; /&gt;
            
            東アジア古伝承と日本原住民
            田中 勝也
            
                新泉社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/kodaioukennosaisi.jpg&quot; alt=&quot;kodaioukennosaisi.jpg&quot; /&gt;
            
            古代王権の祭祀と神話
            岡田 精司
            
                塙書房
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/61ROSaOVKIL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;天皇の国・賤民の国―両極のタブー (河出文庫)&quot; /&gt;
            
            天皇の国・賤民の国―両極のタブー (河出文庫)
            沖浦 和光
            
                河出書房新社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/ukai.jpg&quot; alt=&quot;ukai.jpg&quot; /&gt;
            
            鵜飼―よみがえる民俗と伝承 (中公新書)
            可児 弘明
            
                中央公論新社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/michiwaawayori.jpg&quot; alt=&quot;michiwaawayori.jpg&quot; /&gt;
            
            道は阿波より始まる〈その1〉阿波風土記伝承と磯上乃古事記 (1985年)
            岩利 大閑
            
                京屋社会福祉事業団
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51C0CA75FYL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;古代「おおやまと」を探る&quot; /&gt;
            
            古代「おおやまと」を探る
            &amp;nbsp;
            
                學生社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51OxL6RCe0L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;神武外伝 THE FIRST EMPEROR OF JAPAN 上巻&quot; /&gt;
            
            神武外伝 THE FIRST EMPEROR OF JAPAN 上巻
            鉄木 真一
            
                文芸社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51qTYQjJBRL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;神武外伝 THE FIRST EMPEROR OF JAPAN 下巻&quot; /&gt;
            
            神武外伝 THE FIRST EMPEROR OF JAPAN 下巻
            鉄木 真一
            
                文芸社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41wweFMZf0L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;翁の生成―渡来文化と中世の神々&quot; /&gt;
            
            翁の生成―渡来文化と中世の神々
            金 賢旭
            
                思文閣出版
            
            
        
    



&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;</description>
      <pubDate>Thu, 02 Sep 2010 19:00:00 +0900</pubDate>
      <dc:subject>http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=2146</dc:subject>
      <dc:date>2010-09-02T19:00:00+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>vol.3 この作家はこの甲冑を着ている</title>
      <link>http://www.honza.jp/author/3/ishiguro_kengo?entry_id=2142</link>
      <description>&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/IK_vol_3_title.jpg&quot; alt=&quot;IK_vol_3_title.jpg&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/IK_vol_3_ber03.jpg&quot; alt=&quot;IK_vol_3_ber03.jpg&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;現代の流行作家は、ある程度売れてくると必ず「甲冑」をオーダーするのが一種のならわしとなっています。自分のキャリア、年齢、ルックス、作風、携えた雰囲気、目指す存在感などを総合的に判断し、自分らしさを表現する「兜・具足」をしつらえるのです。直江兼続の「愛」という漢字が付いている兜は、渡辺淳一がかぶって有名になったのはよく知られていますね。&lt;br /&gt;
&amp;#12288;着用する場として最も重要視されるのはもちろん文壇バー。そこに作家同士が同席した際には、お互いがデコラティブな甲冑をまとい、「やあやあやあ遠からんものは&amp;hellip;&amp;hellip;」とオリジナルな口上を述べ、ライバルを威嚇します。また、担当編集者や部長、局長との打合せ、話合いにも大活躍。直し、文体、タイトル、装幀、部数、印税率、絶版、文庫化、二次使用についてなど、さまざまな交渉ごとに。気圧された相手が要望を告げにくくなる、重々しさを醸し出すパワースーツは欠かすことのできないワードローブです。&lt;br /&gt;
&amp;#12288;さらに重宝するのは、書店周り、サイン会、インタビューやパブリシティ用の撮影。媒体に出た時のきらびやかさというメリットはもちろん、戦のつもりで精神も引き締め挑むという、自分への喝入れという効果もあなどれません。&lt;br /&gt;
&amp;#12288;我が石黒総研は今回、著名な作家に突撃調査を敢行。所用の甲冑をご披露させていただきます。 &lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/ishiguro_kengo_vol_3_image_01.jpg&quot; alt=&quot;ishiguro_kengo_vol_3_image_01.jpg&quot; /&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/IK_vol_3_ber03.jpg&quot; alt=&quot;IK_vol_3_ber03.jpg&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;



                                                                                                                                           



&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/ishiguro_kengo_vol_3_trim.jpg&quot; alt=&quot;ishiguro_kengo_vol_3_trim.jpg&quot; /&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;［&amp;uarr;画像をクリックし拡大図をご覧下さい］&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/IK_vol_3_ber03.jpg&quot; alt=&quot;IK_vol_3_ber03.jpg&quot; /&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;☆参考図書&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;



    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/5194N4NVQ5L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;図説・戦国甲冑集―決定版 (歴史群像シリーズ)&quot; /&gt;
            
            図説・戦国甲冑集―決定版 (歴史群像シリーズ)
            伊沢 昭二
            
                学研
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41Y2EB8Q0QL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;図説・戦国甲冑集―決定版 (2) (歴史群像シリーズ)&quot; /&gt;
            
            図説・戦国甲冑集―決定版 (2) (歴史群像シリーズ)
            伊沢 昭二
            
                学研
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41SV92CG3GL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;文人悪食 (新潮文庫)&quot; /&gt;
            
            文人悪食 (新潮文庫)
            嵐山 光三郎
            
                新潮社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51XPMY706BL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;ブルース (角川文庫)&quot; /&gt;
            
            ブルース (角川文庫)
            花村 萬月
            
                角川書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/212SAWDJQDL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;鉄鼠の檻 (講談社ノベルス)&quot; /&gt;
            
            鉄鼠の檻 (講談社ノベルス)
            京極 夏彦
            
                講談社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/31GM6GWY3HL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;万延元年のフットボール&quot; /&gt;
            
            万延元年のフットボール
            大江 健三郎
            
                講談社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/518f8767cJL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;鉄道員(ぽっぽや) (集英社文庫)&quot; /&gt;
            
            鉄道員(ぽっぽや) (集英社文庫)
            浅田 次郎
            
                集英社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ubQVxnUkL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;6TEEN&quot; /&gt;
            
            6TEEN
            石田 衣良
            
                新潮社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/418AWNDQMFL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;くっすん大黒 (文春文庫)&quot; /&gt;
            
            くっすん大黒 (文春文庫)
            町田 康
            
                文藝春秋
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/211GPBJY3RL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;なにわのアホぢから (講談社文庫)&quot; /&gt;
            
            なにわのアホぢから (講談社文庫)
            中島 らも
            
                講談社
            
            
        
    



&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;</description>
      <pubDate>Tue, 31 Aug 2010 23:00:00 +0900</pubDate>
      <dc:subject>http://www.honza.jp/author/3/ishiguro_kengo?entry_id=2142</dc:subject>
      <dc:date>2010-08-31T23:00:00+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>想瞬組曲 Vol-20 「岩躑躅」</title>
      <link>http://www.honza.jp/author/3/inoue_akira?entry_id=2108</link>
      <description>&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3257/iwatutuji.gif&quot; alt=&quot;iwatutuji.gif&quot; /&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;躑躅の名前の由来は筒状の花であるところから来ていると言われているらしい。つつじと読むには強面のこの漢字からは、幻想の世界につながるドアが見えてくる。繊細さよりは字画数の威力を感じさせられる字面だが、群生している赤い花の密度の濃さが伝わってくることの不思議さがすごい。&lt;br /&gt;
だが、植物の分類は僕達の生活感覚とは少し違う次元で世界を見ているに違いない。コケモモやヒメシャクナゲなどの可憐な山草も躑躅の一族だといわれるとマフィアの孫娘がスレンダーな美女なのか、などとつい思ってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;群生＋密度の濃さ＋マフィア、からの連想では少し気が引けるが、懐かしい名前を思い出した。ジノ・バネリGino Vannelliがその人である。&lt;br /&gt;
イタリア系カナダ人シンガー・ソングライターである彼の作品は、短い期間だったが僕の周りでも話題のアーティストだったことがある。1978年にリリースされたアルバム「Brother To Brother」がヒットした事がきっかけだったのだが、当時の流行とリンクしたシンセサイザーを多用した音作りが目立ったのだ。&lt;br /&gt;
イタリア系らしくパワフルな熱唱型ボーカリストであるGinoとキーボード・アレンジ担当の実兄Joeのコンビが生み出したサウンドは、ジャズの要素も感じさせるものの、どちらかと言えばクラシカルな響きや和音進行、多用される転調などのおかげで同時代のアメリカ発ジャズフュージョングループとは、ひと味違う感覚を持っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1952年生まれ、なので同世代人である。今でも精力的に活動しているのは嬉しい事だが、最初に聴いたときの印象と最近の音がほとんど同じ路線なのにも驚かされた。一定の支持層を得ている幸福さと、イタリア文化のワンパターンな美学ががっちり手を組んで、ちょっとやそっとでは揺るがなさそうである。&lt;br /&gt;
ハーモニーのセンスや細かい技巧的なフレーズの登場させ方など学ぶ点は多いのだが、いつの間にかプログレッシブな衣装を着たトム・ジョーンズ、という雰囲気になってしまうところがなんとも憎めない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お洒落に成り切れない脂っこさは、歌詞のメッセージにも共通するらしい。代表曲「Brother To Brother」の歌詞を、初めて聴いてから35年以上経って見直してみたのだが、言わんとするところはヒューマニティに満ちていて素敵なものだった。でも紋切り型でストレートすぎる表現が羅列整列していて、見えてくる世界の奥行きは、残念ながらそれほど深いとは言い難い。典型的なサウンド指向のアーティストだったのだから、70年代には誰も不満を覚えなかったし、演奏能力とアレンジの面白さで十分過ぎるほどの存在感があったのである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コケモモやヒメシャクナゲのような可憐さや儚げな雰囲気ではない。街路樹や公園の植え込みに緑と赤の組み合わせで、さあ、お任せ下さいとばかりに明解に咲き誇る躑躅の力強さにあふれているのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;Please install the Flash Player&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;音楽図譜「Rock Azales /Comp PF ver」/Music by Akira Inoue&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;＜芭蕉の作品に限らないが、俳句の英訳を見ていると翻訳というプロセスの難しさを痛いほどに感じる。ワーズワースやシェークスピアも英語国民が見たら、ウームと唸る日本語になっているのだろうか。と言って見たものの、Rock Azaleasという単語には心惹かれるものがあったので、こんな音楽が出来上がった。ベースパートのリズミックなフレーズは息継ぎの瞬間の余白のためにある。だらだらとしたおしゃべりとテロップだらけの文化への、深くて長いため息である。＞&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コケモモとヒメシャクナゲのデュオにも耳を傾けておこう。山草は可憐だが脆弱ではない。多弁ではないが寡黙でもない。そんな意味で考えれば、さしずめ清瀬保二の作品が一番精神的に近そうな気がする。でも、少し素朴すぎて「躑躅感」に欠ける様な気もするので、もう少し細かい音符で話をするふたりに登場してもらうことにする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コケモモにしてはマッチョ過ぎるかもしれないが、パット・メセニーとブラッド・メルドーのデュオ・アルバム「メセニー・メルドー」である。人気者ふたりの作ったこの作品は、繊細さと透明感に満ちていて、僕の最近の愛聽版のひとつなのだ。ハーモニーの組み立て方の上手なこと、それぞれのソロパートが饒舌になりすぎず文脈が整っていること、単純に言って録音が素晴らしいのでギターもピアノも自然に聴けること。これだけの要素がバランス良く揃っている作品も珍しい。近代フランス音楽の耽美さすら感じてしまうメロディックな展開は、ブラッド・メルドーのもたらしたものだろう。一方でふたりの間で交わされる息の長い楽想のやりとりは、パット・メセニーが「よく聴くギタリスト」であるからこそ生まれ得たものだ。ジョニ・ミッチェルの伝説的ライブにおける彼の絶妙なバッキングを思い出させる雰囲気がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アルバムの1曲目、メルドーの作曲による「Unrequited」の冒頭部分は、このユニットの叙情性が「ふたつの歌」となって絡み合う美しい曲である。メロディが半音進行する度に、調性が伸び縮みするかのように微かに捻れて変容する。安定したテクニックがもたらす自由さと裏付けとなる知性が、見事なバランスで見え隠れする。&lt;br /&gt;
これを人はジャズと呼ぶのだろうか？ならばドビュッシーもアンリ・デュティーユもジャズの作曲家と呼ぶべきだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;3曲目に収められている「Summer Days」はメセニーの曲で、アコースティックギターの響きが魅力的な作品である。テクニカルなギタリストは技術重視のセッティングをするため、音色そのものに魅力が乏しいことが多い。もちろん正統派アコースティックギター・ファンから見れば、この曲のギターサウンドも重みに欠けるのだろうが、僕にとっては歌として聴くに足る色彩感がある。エンジニアの趣味の良さ、おそらくミックスの時の仕事だろうが暖かい音色のリバーブが、音楽的な扱いで上手く使われているのも嬉しい。&lt;br /&gt;
ピッキングしているとは思えないくらい息の長いフレージングは、ポジションの使い方にも秘密があるのだろうか。技術に詳しいギターフリークなら知っている事だろうが、ピックの堅さや使い方自体にも理由があるのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ピアノもそうだが、ギターも旋律を歌い上げ続けるには制約の多い楽器である。 それなのに、このふたりの間の取り方を聴いていると呼吸自体が長くて、しかもパラレルに交叉しながら別々のリズムで呼吸しているように感じられてくるのが驚きだ。そして、稀に呼吸が同時に取られるとき、音楽全体が大きな深呼吸をするかのように色を変えるのである。&lt;br /&gt;
このアルバムは大バッハも気に入ると思う。彼に意見を聞けたら、ドラムとベースの入った曲が数曲あるがあれはなくても良かったね、と言うような気がするが。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
■発行人&amp;#12288;&amp;#12288;&amp;#12288;井上鑑&amp;nbsp;記す&lt;br /&gt;
■画像編集&amp;#12288;&amp;#12288;菊池祐介&lt;br /&gt;
■録音&amp;#12288;&amp;#12288; &amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp;片倉麻美子（Mixer&amp;rsquo;s Lab）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3257/岩躑躅bottom_copy_01.gif&quot; alt=&quot;岩躑躅bottom_copy_01.gif&quot; /&gt; &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3257/bokunooto_inoue_akira_banner.jpg&quot; alt=&quot;bokunooto_inoue_akira_banner.jpg&quot; /&gt;&lt;/p&gt;</description>
      <pubDate>Thu, 26 Aug 2010 00:14:00 +0900</pubDate>
      <dc:subject>http://www.honza.jp/author/3/inoue_akira?entry_id=2108</dc:subject>
      <dc:date>2010-08-26T00:14:00+09:00</dc:date>
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      <title>第７柱　国常立尊－６◎日本哲学の惨状と大本の金神</title>
      <link>http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=2037</link>
      <description>
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi_7_6_00.gif&quot; alt=&quot;takahashi_7_6_00.gif&quot; /&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;#12288;１本のスピリチュアル・ポール（柱）を立て、これを&amp;ldquo;中心&amp;rdquo;とする「場」を宇宙・生命・霊魂、現代的にいえば、「物質」と「情報」が発生した「未分の世界」（混沌：カオス）と想定することは多くの人類に共通していました。その混沌の場を想定することで、この世はどのように発生したのか、人間はどのように創造されたのかというような問いをおこし、その多様な解答群とともに物語（神話）として保存したのです。このとき、「場」の外側から訪れて、「場」の形成のために働く多様な&amp;ldquo;未知&amp;rdquo;が神々として列挙されているともいえましょう。これは中国では社稷（しゃしょく）といいます。｢社稷を立てる｣ということは共同体を形成すること、国を立てることでもありました。これを日本語でいえば、そのまま｢国之常立神｣（クニノトコタチノカミ）です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;このポールをめぐって発生した世界構造は社会の拡大ともに複雑な世界像を複合して巨大化し、ピラミッドやジグラッド、ゾロアスターの精神階梯やイグラドシル、仏教の須弥山や道教の崑崙（こんろん）のような観念宇宙ともなったのです。あるいはこれらをすべてくつがえして世界の外に唯一者（ゆいいつしゃ）を想定し、一挙に世界を創造したとする短絡（たんらく）も生じました。この短絡は&amp;ldquo;無&amp;rdquo;や&amp;ldquo;虚&amp;rdquo;のような&amp;ldquo;原初の混沌&amp;rdquo;（カオス）を嫌います。そのすごいところはとめどなく発生する問いを専門家にまかせることで、社会のおそるべき発展を可能にし、その答えがいきすぎるととり除くという&amp;ldquo;合理&amp;rdquo;を構築したことにあります。これは現代社会の&amp;ldquo;病理&amp;rdquo;ともなっているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;聖徳太子の時代まで、日本列島にもスピリチュアル・ポールを立てたプリミティブな共同体の連合体が集散離合していました。そこに時代に応じて進歩、変化する儒教、仏教、道教などを導入し、神話の問いに対する解答を模索してきたといえましょう。｢神道｣はもともとあったのではなく、不断に編集されリファインされてきたのです。「神道」はたんなる&amp;ldquo;惟神の道&amp;rdquo;（かんながらのみち）ではなく、日本で構成された「宇宙と霊魂と倫理の思索」、すなわち儒教、道教、仏教の諸宗派、あるいはキリスト教の霊魂論をも巻きこんだ「日本哲学」に昇華しました。ところが、ごく単純にいえば、明治維新政府は日本人の霊魂の根源を天皇に収束し、江戸時代に成熟した藩や地域共同体に所属する民（たみ）を日本国民としてまとめようとしたのです。そのために構築されたのが｢国家神道｣でした。その短絡（たんらく）は西欧化の嵐にまぎれて、日本から「日本哲学」を奪いました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;｢国家神道｣の名称は、明治23年（1890）に開設された帝国議会において、神社局と宗教局の公務を述べる用語として一般化します。神社局が管轄するのが｢国家神道｣、宗教局が管轄するのがキリスト教、仏教、教派神道などで、宗教団体の神道を｢宗教神道｣と呼称しています。宗教ではない｢国家神道｣が天皇崇拝と神社信仰を一体化し、強制的な&amp;ldquo;心の管理システム&amp;rdquo;となったことが&amp;ldquo;神道のトラウマ&amp;rdquo;になっているのです。これを脱するには独自に発生した神社と神々が、時代の要請を反映して複雑に変転しつづけた物語・歴史・祭祀・思想に関わる情報を復旧しつつ編集する必要があります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;さらに根深い問題は、｢国家神道｣が&amp;ldquo;幽冥の議論&amp;rdquo;を禁じ、千年以上にわたって日本人がつちかってきた&amp;ldquo;宇宙と霊魂と倫理の思索&amp;rdquo;を排除したことにあります。これは「日本哲学」をアカデミックな研究から除外し、近代の｢日本哲学｣の先鋭的な部分が隠秘（オカルト）に傾いたのです。その結果、日本の大学に印哲、中哲、ギリ哲、あるいはフランス哲学、ドイツ哲学などはあれど、「日本哲学」が&amp;ldquo;失&amp;rdquo;（な）いという惨状を招き、今でも「日本哲学」は&amp;ldquo;無&amp;rdquo;（な）いという&amp;ldquo;常識的な非常識&amp;rdquo;がまかり通っています。「日本哲学」の復興によって、日本のアカデミズムは近代の呪縛から解き放たれるでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;｢国家神道｣が公用語となってきた明治20年代、これに危機感をおぼえた知識人も多く、民間にも心の異変が頻繁にあらわれましたが、｢国家神道｣への批判は封殺されていました。これに立ち向かおうとした気運が、国之常立尊（クニノトコタチノミコト）にして｢艮の金神｣（うしとらのこんじん）を掲げた｢皇道大本｣（こうどうおおもと）に結集しました。｢皇道大本｣は、その名を知られているわりには、近代史に位置づけて語られることはほとんどありません。ここでは、その込み入ったヒストリーを編集しておきたいと思います。「皇道大本」のイデオロギーは、明治21年（1888）、小学校の代用教員だった18歳の上田喜三郎（後の出口王仁三郎：1871～1948）と本田親徳（ほんだちかあつ：1822～1889）が丹波の亀岡王子（京都府亀岡市篠町）の梨木坂で出会ったことに端緒（たんちょ）しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;薩摩藩士だった本田親徳（ちかあつ）は京都の薩摩藩邸で狐憑きの少女が和歌を詠むのを見て、「神と霊と心の研究」に邁進（まいしん）します。親徳は水戸の会沢正志斎（あいざわせいさい）に弟子入りし、古神道を標榜する平田篤胤（あつたね）を訪れましたが、神道の理論（教理）はあれど、実証がないというので、40年もの間、神霊現象を体験して神道を研究したのです。そして神懸かりに36種（神憑り36法）、神界に181の階位、霊の種類に上中下の品位があることを体系的にまとめました。憑いた神を判別する「審神法」（さにわのほう）、邪霊を縛る「霊縛法」（たましばりのほう）を開発し、神道に用いられた「鎮魂」（ちんこん）、「帰神」（きしん）、「太占」（ふとまに）から、&amp;ldquo;神と霊と心の統一原理&amp;rdquo;にもとづく&amp;ldquo;霊魂のテクノロジー&amp;rdquo;（霊術）を取り出そうとしたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;これは西欧化を進めながら、国家神道によって&amp;ldquo;帝国日本の心&amp;rdquo;を形成しようとする国策に鋭く対立しました。本田親徳（ちかあつ）は日本の西欧化を拒否し、皇法（こうほう：神道の霊学）を根本に、霊術を用いた神道政治を実現する&amp;ldquo;純粋な祭政一致による王政復古&amp;rdquo;を構想したのです。親徳の弟子の多くは西欧化する帝国日本において、皇法・霊術は懐旧的な癒しになると思っていたでしょう。これに失望した親徳は全国を遊説し、亀岡の不思議な少年の噂を耳にしてわざわざ会いにきたのでした。本田親徳の理論と実践は、少年が出口王仁三郎となり、皇道大本を率いるようになって顕在化します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;上田喜三郎と本田親徳（ちかあつ）が出会った２年後、丹波の各地に神懸かりして狂躁状態におちいる女性たちが多数あらわれます。心理学的解釈によれば、これは文明開化の恩恵にあずかれず、むしろ近代社会の矛盾がのしかかり、未来を閉ざされた鬱屈による集団狂躁とされています。出口なお（1837～1918）の妹、福島ひさも発狂し、なおは神社や寺院、丹波に布教しはじめた金光教に治癒法を教わろうとしました。ところが、なおにも神懸かりの兆候があらわれ、さまざまな神封じ（かみふうじ）の効果もなく、明治25年（1892）２月３日、なおは霊夢を見て神懸かりしたのです。これが大本の立教の日とされます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;少し出口なおの半生にふれておきますと、独身のころは桐村なおといい、祖父は福知山藩（京都府福知山市）に代々出口政五郎を襲名する御上大工（おかみだいく）で、苗字帯刀を許された家柄でした。ところが、父の桐村五郎三郎が家を傾け、なおは満８歳から糸つむぎの奉公に出て、寺子屋にも通えず、生涯、文盲（もんもう）でした。それでもなおは、嘉永２年（1849）、福知山藩主・朽木綱張（くつきつなはる：1816～1867）から藩内の三人孝女の１人として表彰されています。朽木綱張は近江膳所（おうみぜぜ）の藩主の次男でしたが、婿入りして福知山藩主となり、民意をえるために民間の孝行娘を表彰したのです。しかし藩政改革に登用した家臣が安易な増税策をとり、万延元年（1860）、大規模な百姓一揆がおこりました。しかも福知山藩は佐幕（さばく）を貫き、明治維新を迎えても、丹波の庶民は文明開化の矛盾にさらされ、その恩恵はおよばなかったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;桐村なおは福知山城下の饅頭屋や呉服屋に奉公していましたが、綾部（あやべ：京都府綾部市）にいた叔母の出口ゆりの養女となり、安政３年（1856）、大工の四方豊助を婿養子に迎えました。豊助は出口政五郎を襲名しましたが、酒好きの浪費家で、明治政府が土地の売買を認めると、出口家の土地や田畑を売りはらい、明治17年（1884）ころには破産状態になります。なおは紙くず買い、糸ひきに出て、またもや極貧に落ち、三男五女を育てながら、未亡人となりました。なおは&amp;ldquo;明治維新の負の運命&amp;rdquo;を一身に背負い、同じような運命の女性たちをみつめてきたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;出口なおに神が憑（つ）いたとき、腹に何かが宿って大声が聞こえ、なおが｢だれか｣と問うと、「艮の金神」（うしとらのこんじん）と答えたというのです。そして艮の金神は、なおに｢三千世界を立て替（か）え立て直（なお）す神じゃぞ。三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたるぞよ｣といい、「とどめに艮の金神があらわれて三千世界の大洗濯を致すのじゃ。これからなかなか大謨なれど、三千世界を一つに丸めて万劫末代（ばんごうまつだい）続く神国にいたすぞよ」と託宣したと伝えられます。これは&amp;ldquo;神による革命宣言&amp;rdquo;です。しかし文盲のなおには、その漢語などの意味がわかりませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;なおは13日間、断食状態がつづき、法華僧の祈祷を受け、福知山の金光教会に憑いた神の由緒を調べてもらいましたが、憑いた神がなにかは知れず、乞食姿で遍歴し、狂躁状態になって叫び、奇行をくりかえしました。そして放火の疑いで警察に留置され、座敷牢に押し込められたのです。その牢獄で落ちていた釘（くぎ）をもち、憑依（ひょうい）した神が語りかける言葉を自動的に記すオートマティスム（お筆先）がはじまりました。出口なおは牢から出て、神の言葉をはじめは杭（くい）にカナクギで刻み、やがて紙に筆で書くようになります。これは平かなと数字で書かれましたが、周囲の知り合いは読めても何が伝えられているのか理解できなかったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;出口なおは綾部で病気治しの祈祷をはじめ、「綾部の金神」と評判がたちます。ことに日清戦争開戦の予言が的中したことから、金光教が布教師の奥村定次郎を派遣し、明治27年（1894）、なおの信者を中心とした金光教綾部布教所が開設されたのです。そこに金光教の金神となおの「艮の金神」をあわせて祀（まつ）りました。けれども、なおのお筆先は止まらず、これを軽視する金光教との対立が深まります。そのころ、出口なおの三女ひさが京都内国勧業博覧会の見物客をあてこんで、綾部に小さな茶店を出しました。この茶店を奇しき神に導かれたかのように上田喜三郎が訪れるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;上田喜三郎は本田親徳（ちかあつ）の&amp;ldquo;霊術&amp;rdquo;を試しながら、大石凝真素美（おおいしごりますみ：1832～1913）と交遊し、その思想を咀嚼（そしゃく）していました。真素美は幕末に密教を学び、勤王の志士と交流して明治維新に夢を託しましたが、廃仏毀釈に失望し、明治３年（1870）、国家神道を似非神道（えせしんとう）とののしって投獄され、出所して南宮大社（岐阜県不破郡垂井町）に附属する修験寺院、天上寺の山本秀道に弟子入りしました。そこに醍醐派修験道の「恵印三昧耶法」（けいいんさまやほう）、すなわち大日如来と合一する修法が継承され、これを応用して精神病を治療する「山本救護所」が開設されていたのです。「山本救護所」は近年、優れた成果をあげた日本初の精神病院として評価されはじめています。天上寺は実践的な霊魂の研究が可能な数少ない施設でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;大石凝真素美（おおいしごりますみ）は山本秀道とともに「恵印三昧耶法」を応用して独自な鎮魂帰神法（神人合一法）を開発したといわれます。これを用いて、真素美は「天津金木学」（あまつかなぎがく）をおこしました。「天津金木」は天照大御神（アマテラスオオミカミ）が岩戸隠れしたとき、神々が未来を占うために構成した装置の柱状の部品、伊勢神宮の真の御柱の霊体、宇宙の根本度量衡器とされていました。これを修法者が理想的に配置すると、造化三神と一体化してヴァーチャルな小宇宙を出現させ、宇宙の生成過程を見ることができるというのです。これはいわば&amp;ldquo;霊界テレビ&amp;rdquo;のようなもので、それを実現する思索の体系が「天津金木学」でした。さらに真素美は自然の表象を神が霊示する文字とし、これを読みとく言霊学（ことだまがく）を開発し、上田喜三郎を琵琶湖に招き、水紋にあらわれる啓示の文字（水茎文字：みずくきもじ）を判読する方法を伝えたといいます。大石凝真素美は、これらの研究のはてに神国（理想世界）を実現するための&amp;ldquo;弥勒下生による革命&amp;rdquo;を想定しました。これが皇道大本の実践論となるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi_7_6_2.gif&quot; alt=&quot;takahashi_7_6_2.gif&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
「天津金木」の配列例&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;このような霊魂研究と神道革命を模索していた上田喜三郎は亀岡で病気治しの祈祷師となり、「穴太（あのう）の喜楽天狗」と噂されます。これを伝え聞いた月見里神社（やまなしじんじゃ：静岡市清水岡町）に附属する稲荷講社のお札を配っていた三矢喜右衛門（みつやきえもん）が喜三郎を訪れ、長沢雄楯（かつたて）に会うよう勧めました。稲荷講社は本田親徳（ちかあつ）がネットワークした組織で、静岡に稲荷講社を結成した弟子の雄楯に｢丹波から青年が訪ねて来ると道が開ける｣と遺言し、鎮魂帰神法（神人合一の法）と審神学（さにわがく：憑いた神の判別法の研究）の奥義書を残していたのです。この奥義を習得した喜三郎に神が憑依（ひょうい）し、明治31年（1898）、その神は長沢雄楯の審神（さにわ）によって素戔嗚尊（スサノオノミコト）の眷族（けんぞく）、小松林命（コマツバヤシノミコト：牛頭天王）と判示されました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;上田喜三郎は小松林命から｢西北を指していけ｣という神示をうけ、亀岡から西北に進んで綾部に入り、出口ひさの茶店に立ち寄ったというわけです。これが縁で上田喜三郎は出口なおと出会い、明治32年（1899）、稲荷講社の分会として「金明霊学会」（きんめいれいがくかい）を立ち上げます。翌年、出口なおは五女すみを大本の後継者とし、喜三郎をすみの婿に迎えたのです。そして出口喜三郎夫婦に長女直日（なおひ：3代教主）が誕生したとき、喜三郎の「喜」は世界を変革する「鬼」とされ、「鬼三郎」では直接的なので、「王仁三郎」（おにさぶろう）と改名します。王仁三郎は出口なおのお筆先を読み解き、編集しました。これが『大本神諭』（おおもとしんゆ）となるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;『大本神諭』によって出口なおに憑（つ）いた神の由来が解読されました。それによれば、世界に鬼神が出入りする「丑寅」（うしとら：東北）の表鬼門を「厳の御霊」（いつのみたま）としての国之常立神（クニノトコタチノカミ）が管理し、「未申」（ひつじさる：南西）の裏鬼門に「瑞の御霊」（みずのみたま）としての素盞嗚尊（スサノオノミコト）が守護するというのです。『大本神諭』に示された歴史によれば、国祖として天皇家を守ってきた国之常立神は崇神天皇の時代に神隠れし、以降の日本は仏教、儒教、道教を受け入れて和光同塵（わこうどうじん）になったのですが、それらを日本化できたのも国之常立神の陰の支えがあったからだとします。そして明治維新を機に神国日本を立て直すために、国之常立神は出口なおに憑いてあらわれたというのです。これらの神々は世界を&amp;ldquo;みろくの世&amp;rdquo;に導くとされたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;「みろく」について、『大本神諭』に収録されたお筆先に「みろくには、五六七と六六六の、仮名あるぞ、五六七は、世の善の映し、みな、この名を祝うが、六六六とは、世の悪の写し、みな、この名を呪うぞ」とあります。「五六七」は弥勒菩薩が悟りを開いて下生するのが５億６千７百万年後とされることから、「みろく」と解読されました。この神示の意味は国祖の国之常立神（クニノトコタチノカミ）が出口なおに憑いて、西洋では悪魔の数とされる「六六六」に象徴された悪神を招いて人々に呪われるが、これが「五六七」（みろく）となって世界を救済するとされたのです。すなわち、国之常立神が出口なおに憑いたのは、出口王仁三郎を媒介に荒ぶる素盞嗚尊（スサノオノミコト）を出現させ、世界を&amp;ldquo;みろくの世&amp;rdquo;に導くためだったと解釈されました。このような神諭の解読にもとづいて、出口なおの教団は皇祖の天照大御神と神祖の国之常立神が教示する天理人道の根本義、天下を統治する神法神則、人の世に処する根本法則を広める役割をになうとされたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;こうして出口なおのもとに350人ほどが集まった「金明霊学会」は拡大を模索します。明治39年（1906）、王仁三郎は皇典講究所（現国学院大学）に入り、神職の資格をえて建勲神社（たけいさおじんじゃ：京都市北区紫野）に神主の作法を実習して、教団の祭祀を神社神道にそくするものに改め、教団名を「大日本修斎会」としたのです。こうして明治45年（1912）、綾部に信徒の祖霊を祀る祖霊社を設け、病気治しや占いなどの祈祷宗教から祖霊祭祀を中核とし、倫理・哲学・社会変革を喧伝する宗教教団への脱皮をはかりました。印刷所を設けて機関紙「敷島新報」（後の「神霊界」）を発刊するとともに、布教のため直霊軍（なおびぐん）を組織し、宣教を開始したのです。これによって短期間に信徒は10万人をこえ、大正２年（1913）、「大本教則」を整え、宗教神道の大本教（たいほんきょう）として認められました。そして大正５年（1916）、帝国日本が第一次世界大戦参戦によって好景気にわく中で、出口なおは亡くなり、2代教主すみと出口王仁三郎が大本のトップに立ち、教団名を「皇道大本」（こうどうおおもと）としたのです。その翌年、王仁三郎は「大正維新について」を著し、&amp;ldquo;皇道経済論&amp;rdquo;を展開しはじめます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;大正８年（1919）、王仁三郎は寄金によって亀岡の亀山城を買収し、廃棄された石材を用いて「五六七殿」（みろくでん）などの神殿や修養所を建造しはじめます。この宗教施設は「天恩郷」と名づけられ、天主閣付近を聖地（至誠所）とし、これを遥拝する月宮宝座（月宮殿）を設けました。さらに綾部の本宮山を購入し、本宮山神殿の建設にとりかかります。その翌年、政府は株価や相場の暴騰、国際収支の赤字を見て金融引締めに出ました。ところが、第一次大戦の戦後不況が世界に広がり、政府の金融政策が裏目に出て株価、相場の大暴落、大量な企業倒産をひきおこし、失業者があふれ、帝国主義批判、社会革命の機運がおこります。こうした世情のなかで皇道大本は「大正日日新聞」を買収し、「明治維新は王政復古を実現したので、大正維新に神政復古を実現しよう」というプロパガンダを展開しました。王仁三郎の&amp;ldquo;皇道経済論&amp;rdquo;を背景とする「大正維新の神政復古」はなにを実現しようと主張したのでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;それは国家家族制の採用と金銀為本政策の停止でした。明治18年（1885）、政府は銀と兌換する日本銀行兌換銀券を発行し、明治30年（1897）、貨幣法が公布され、帝国日本は金本位制に移行しました。出口王仁三郎はこの金銀為本政策の導入を機に、今風に言えば、最初のグローバル化を実行して「普通の国」（欧米と同列の国）になり、軍備を整えて戦争に勝ち、貿易を有利にする植民地政策に出て、弱肉強食の世界に生き残りをかけるようになったとするのです。その風潮は一般人にも行き渡り、だれもが金銀本位になって、所有する金額によって人間の価値が決まるという風潮がひろまり、ひどい地域格差、貧富格差を生じ、神国の美徳が失われたとします。この近代日本が抱えた問題はいまだに解決されていないといえましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;これに対して出口王仁三郎は大胆な構想を提案します。それは天皇を&amp;ldquo;先天的な世界の大元首&amp;rdquo;と認め、天皇を中核とする祭政一致の政府に国民は土地や財産を政府に奉還しようというのです。その仕組みを概略すれば、国民はそれぞれの才能を発揮して働き、政府から必要な土地や経費を貸与されればよく、その成果としてえた余分の財をまた政府に奉還すれば、経済循環ができて経済成長するとします。そこに&amp;ldquo;税金&amp;rdquo;という概念はなくなり、必要以上に財をためこみ、働かないで利益をえるものも中間搾取や政府の無駄使いもなくなるというのです。だれも余分な財を所有しなければ、泥棒や凶悪事件もなくなり、地域に産するものを使えば（今の地産地消）、貿易や交易も必要なものを交換するだけになり、地域文化が健全に発展し、他国への侵略も不必要となって、軍備も過大にならず、傷病者や孤児、妊婦や寡婦、弱者や老人をケアすることなど、充分にできるとするのです。これはキリスト教社会において、資本主義の矛盾に対して構想されたサン・シモンやロバート・オーエンのユートピアと比較されるべきでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;王仁三郎は、明治維新に天皇の信用にかけて大名も四民も政治権力を奉還する「大政奉還」を実現した日本だからこそ、大正維新で「財産奉還」を実現できるとします。これによって帝国日本は「国家家族制」に移行し、人々は人生の意義を、財産を残すことから芸術や学問や技術を後世に残すことに見いだすようになり、&amp;ldquo;みろくの世&amp;rdquo;の第一歩がはじまるとするのです。そして日本の国家家族制が成果をあげれば、世界に財産奉還が広がり、天皇のもとに自主的に統合されていくとします。ところが、大正10年（1921）、大正日日新聞の社主でスピリチュアリスト（神霊主義者）でもあった浅野和三郎が社会変革を打ち出し、天変地異の予言によって信者を混乱させたという訴えによって、警察は不敬罪と新聞紙法違反の容疑で出口王仁三郎と教団幹部を検挙しました。そして王仁三郎の拘留中に武装警官隊が完成したばかりの綾部の本宮山神殿を破壊したのです。これは政府の違法行為でしたが、マスコミは皇道大本を国賊と書きたて、大衆もこれに迎合しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この126日の拘留後に王仁三郎はトランス状態になり、『霊界物語』の口述をはじめました。これは７編に編集され、６篇は12巻、最終編８巻、「王仁蒙古入記」を加え、未完結の全81巻の長大な物語です。その物語は丹波という地域を全世界に投影し、エジプト、インカ、アメリカインディアンからバラモン教、仏教、道教、儒教、キリスト教におよぶ世界像を織りこみ、35万年前から紀元50世紀までの歴史書・予言書となっています。そこにスサノオ的な悪神が生まれ変わり、成り代わり、救世主となって世界を救済し、&amp;ldquo;みろくの世&amp;rdquo;を招来するというストーリーが展開します。これは皇道大本が過激に社会革命を実現する集団ではないという表明でもあったのですが、断続的に発行された出口瑞月編『霊界物語』はすべて発禁となったのです。その『霊界物語』の第６編に王仁三郎が蒙古に入って活躍する「王仁蒙古入記」が付されています。その経緯を少し解説しておきましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;大本の第一次弾圧がおこった大正10年（1921）、蒙古は中華民国から自立したものの、西の辺境タンヌ・ウリャンハイにソビエト軍が侵入してトワ人民共和国を樹立し、蒙古国内は混乱していました。その翌年、中央アジアのイスラム系新興宗教、バハイ教の使者が皇道大本を訪れます。ここに王仁三郎は日本の神道から諸教同根、万教同根の世界宗教への脱皮を試行し、大正12年（1923）、大本エスペラント研究会発会を発足させ、世界に呼びかけはじめました。この年、関東大震災がおこり、国内が混乱する中、大本は中国、蒙古に深く根を下ろすラマ教との連携を試み、大本と共通のシャーマニズムによる中国の新興宗教、世界紅卍会（こうまんじかい）の使者が訪れ、朝鮮独立をめざす普天教に使者を派遣して連携が成立します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;こうして満州、蒙古、中国の現状を実感した出口王仁三郎は大本本部に植芝塾を開いて合気道を工夫していた植芝盛平（うえしばもりへい：1883～1969）に相談し、&amp;ldquo;義経・チンギス汗伝説&amp;rdquo;になぞらえて蒙古を安定させ、要衝パインタラ（白音太拉）に皇道大本の本拠地を移す計画を実行に移します。これは蒙古を独立させ、ソビエト連邦におびやかされる諸民族を説得して中央アジアを平定し、西欧列強に蚕食（さんしょく）され、悲惨な境遇におちいったアフガニスタン、インド、イラン、メソポタミアからエルサレムまで進軍して世界統一宗教を実現するという壮大なプランの序曲としようというのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;&amp;#12288;王仁三郎は大本の信者だった元海軍大佐、満州で武器を商っていた矢野祐太郎夫人、矢野新（しん）に大陸渡航の手続きを依頼し、植芝盛平と数名の信者を伴い、大正13年（1924）、奉天に入りました。そして中国独立の志士、宋教仁（魯迅『狂人日記』の主人公）を助けて孫文の辛亥革命に参加し、玄洋社の社員でもあった末永節（すえながみさお：1869～1960）が主宰する肇国会（けいこくかい）の仲介で、蒙古独立に賛同する馬賊の頭目、盧占魁（ろせんかい）と盟約します。肇国会はバイカル湖以東のシベリア、満州、蒙古を大高麗国（だいこまこく）とし、中立国として独立させるために工作していたのです。盧占魁が率いる馬賊とともに蒙古高原に入り、蒙古独立を説きながら行進する王仁三郎を大活仏として迎える蒙古人も多く、ぞくぞくと独立軍に加わってきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi_7_6.jpg&quot; alt=&quot;takahashi_7_6.jpg&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
蒙古を行く出口王仁三郎（中央）&amp;#12288;『入蒙記』より&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;王仁三郎が率いる蒙古独立軍はパインタラを目前に外蒙古領有の野心を抱く軍閥、張作霖（ちょうさくりん）の討伐軍に捕捉され、王仁三郎は銃殺と決まりましたが、矢野祐太郎が奉天軍や特務機関（貴志機関：張作霖の軍事顧問）に嘆願し、日本領事館の介入によって救出されます。その背景に世界紅卍会や張学良（張作霖の息子）と兄弟の契りを交わして大アジアを構想していた怪人、堀川辰吉郎（ほりかわたつきちろう：1884～1966）のバックアップがあったようです。いずれにせよ、白系ロシア人の追撃と称して外蒙古に侵入したソビエト軍によって、ソ連の衛星国としての蒙古人民共和国が成立し、出口王仁三郎一行は強制送還されます。このとき、皇道大本を国賊と罵倒した政府もマスコミも国民も、一転して王仁三郎一行を英雄として迎えました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;大正14年（1925）、皇道大本は北京で「世界宗教連合会」を発足させ、人種、国境、宗教を問わず、同志が協力して人類の繁栄のために活動をする団体「人類愛善会」を立ち上げ、諸宗教との連帯をはかったのです。ここに皇道大本は日本神道の&amp;ldquo;神・霊・心の統一原理&amp;rdquo;を基盤にしながら、日本固有の宗教から「万教同根」（すべての宗教の根は同じ）をかかげる世界宗教への脱皮をはかりました。その翌年、王仁三郎は天恩郷内に窯を作り、楽焼をはじめました。そして昭和２年（1927）、皇道大本をめぐる裁判も大正天皇の崩御による恩赦によって無罪となったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;昭和３年（1928）３月３日、王仁三郎は56歳7カ月を迎え、これは弥勒が下生する56億７千万年の数にあたるとし、「みろく下生」を宣言して「昭和維新」への取り組みはじめます。これは「祭政一致の政府」への移行をより具体化しようとするものでした。そして昭和６年（1931）の正月、王仁三郎は西暦1931年を「いくさのはじめ」、皇紀2591年を「じごくのはじめ」とし、帝国日本が世界戦争に巻きこまれると予言します。その10月、満州事変がおこり、帝国日本は国際連盟を脱退し15年戦争が開始したのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;ヨーロッパの侵略にあえぐアジアを目にした王仁三郎は、昭和９年（1934）、「昭和神聖会」を設立し、諸国の大アジア主義者との連帯をはかりました。その統管に王仁三郎、副統管に黒竜会の内田良平・出口宇知麿、顧問に玄洋社の頭山満が就任し、800万人もの会員を擁するようになります。ところが「昭和神聖会」に接触した軍部の皇道派、桜会の橋本欣五郎は政府の英米追従の軟弱外交を攻撃したのです。このような動勢に危機感を募らせた政府は、昭和10年（1935）、軍部の不満分子への牽制を企図し、内務省の指揮によって全国の大本の施設・信者の自宅などを捜索して987人を検挙し、教主出口すみ、王仁三郎をはじめ、61人が不敬罪や治安維持法違反で起訴しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;このとき、帝国政府は国事の報道制限を一時解除し、国家の意向を受けたマスコミはまたもや一転して大本を邪教、妖教、怪教と民衆を誘導する号外をばらまき、不敬不逞の国賊の団体、国体変革を企図する陰謀団体と書きたて、国民は報道や政府の行きすぎへの疑念を抱きましたが、それを批判できる雰囲気ではなかったのです。そして裁判がはじまりもしないのに亀岡の月宮殿は1500発以上のダイナマイトで破壊され、綾部・亀岡の神苑内の建物、別院・分院・分社のすべてを破却し、綾部と亀岡の神苑の敷地を自治体に売却したのです。これは二度目の国家による違法行為でしたが、マスコミは快哉を報じました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;ところが、昭和11年（1936年）、２月26日、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校が「昭和維新・尊皇討奸」を掲げ、天皇親政を実現しようとするクーデター未遂事件をおこしたのです。この&amp;ldquo;2.26事件&amp;rdquo;の不穏な空気のもとで、内容が異なる「昭和維新」を掲げた皇道大本の逮捕者61人が治安維持法違反で起訴され、王仁三郎ら11人に不敬罪をあわせて適用し、昭和15年（1940）の判決で全員が有罪となったのです。その二審公判中の昭和16年（1941）、日本はアメリカに宣戦布告し太平洋戦争がはじまります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;昭和17年（1942）、皇道大本事件の第二審判決は治安維持法違反に関して全員無罪となりました。しかし不敬罪に問われた王仁三郎とすみ、出口宇知麿（うちまる）は恐るべき拷問をうけながら、獄中に残されたのです。昭和20年（1945）の８月、第二次世界大戦が敗戦に終わりますが、９月に大本事件の第三審の判決で上告棄却となります。しかし日本を占領したGHQが思想、信教を抑圧する法令の撤廃を指令し、不敬罪はすべて「赦免」となりました。これによって王仁三郎とすみ、出口宇知麿は、６年の獄中生活を終え、第二次大本弾圧は終わったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;このとき、皇道大本は国家の違法な破壊行為と冤罪（えんざい）に対する多額の賠償請求権があったのですが、敗戦の窮乏に苦しむ国民が納めた国税を費やすのは教義に反するというので、これを放棄しました。国家の違法によって自治体に競売された皇道大本の土地返還訴訟は戦時中から行なわれ、戦後すぐに綾部市・亀岡市の無条件返還によって和解が成立したのです。やっと戦後復興をはじめた皇道大本を２人の世界連邦の構想者が訪れます。インド独立の志士にして大アジア主義者マヘンドラ・プラタップ（1886-1979）とキリスト教社会運動家の賀川豊彦（かがわとよひこ：1888～1960）です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;プラタップの世界連邦の構想は第一次大戦にはじまります。横道にそれますが、その活躍を記しておきましょう。プラタップはドイツのカイゼルを訪れてインド独立を説き、トルコ、アフガニスタン、インド、ロシアを往来し、反植民地ネットワークを形成し、国際連盟からの植民地所有国の排除を説いて世界連邦を構想したのです。大正４年（1915）、アフガニスタンのカーブルにインド臨時政府を樹立し大統領に就任し、大正８年（1919）、アフガニスタン王国の完全独立に寄与して王室顧問となりました。その後もアフガニスタン特使として世界を往来し、フィリピン、ベトナムの独立を支援しながら、たびたび帝国日本を訪れました。しかしガンジーの勧めで、昭和13年（1938）東京府小平村（現東京都小平市）に世界連邦日本本部を建設したのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;昭和15年（1940）、プラタップは在日インド独立運動をまとめ、アリアン義勇軍を組織して世界連邦構想のもとでのインド独立をめざしました。太平洋戦争がはじまると、日独伊三国協定の承認のもとにインド独立宣言を発表しましたが、その世界連邦構想は狭隘な日本の軍事政権に容認されなかったのです。昭和20年（1245）、帝国日本の敗戦によって大森監獄に戦犯として収容され、インドを植民地とするイギリスは戦勝国となり、インド独立は延期になったのです。翌年、出獄したプラタップは同じく出獄したばかりの出口王仁三郎に世界連邦構想を説いたのでしょう。その活動はGHQの日本支配の妨害になるとされて強制帰国させられ、インド独立の達成につくして国会議員として活躍し、郷里のプリンダバンを本拠として世界連邦の建設の夢を追いつづけました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;賀川豊彦はキリスト教の博愛精神を実践した「貧民街の聖者」として日本より欧米での知名度が高く、敗戦直後、読売報知に「マッカーサー総司令官に寄す」を書き、日本民族は世界文化への貢献、世界平和への奉仕に役立つとし、その具体策として国際協同組合と世界国家を提唱しました。これを伝え聞いたマッカーサーは賀川豊彦を招いて、意見を交わしたのです。そのころ、ヨーロッパでは国際連合が拒否権をもつ戦勝国の設定や世界統合を志向しないことなどから、世界連邦構想（1946：ルクセンブルクに「世界連邦政府のための世界運動」開始）が立ち上がっていていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;世界連邦構想はアメリカに伝わり、シカゴ大学名誉総長ロバート・ハッチンスは「原爆の威力を知ったとき、私は直感的に世界国家をつくらねばならないと悟った。世界的な組織をつくり、それに原子力を独占させる以外に将来の戦争を廃絶する望みはない」とし、世界憲法審議委員会を結成して「世界憲法草案」を作成はじめます。その世界連邦の憲法草案の作成に日本人では唯一、賀川豊彦が諮問されたのです。昭和22年（1947）、賀川豊彦はシカゴで作成された「世界憲法草案」（シカゴ草案）を受けとって翻訳します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この年、宗教法人令が施行され、皇道大本は宗教法人「愛善苑」を設立し活動を再開したばかりでした。昭和23年（1948）、「シカゴ草案」を英国の&amp;ldquo;ニューズ・ウィーク&amp;rdquo;に紹介したという情報が、無政府主義者、農本主義者だった延島英一の所属する世界恒久平和研究所に伝わり、シカゴ委員会から原文を取り寄せました。これは愛善苑にもたらされ、綾部に「世界憲法研究会」が結成され、その概要を機関誌「一つの世界」に公表したのです。この年、賀川豊彦はキリスト教と神道の壁をこえて、世界連邦実現への道を探るために、アジアの諸宗教と連帯がある愛善苑を訪れました。その翌年、愛善苑が発行する「人類愛善新聞」の平和特集号に延島英一訳「世界憲法シカゴ草案全文」が掲載され、全国に58万部近くが配布され、市民レベルに世界連邦構想が知られたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;もっとも、この間、出口王仁三郎は作陶に没頭し、昭和24年（1949）、大阪で「耀琓展」（ようわんてん）が開催されました。耀琓は王仁三郎が創意をこめた独創的な楽焼です。その制作によって「人間は芸術をこそ後世に残すべきである」という&amp;ldquo;神国の理念&amp;rdquo;を全うしようとしたのでしょう。それは底抜けに明るい青、黄、緑、赤などを配した独自の境地を表出しています。王仁三郎は帝国日本の官憲が皇道大本を弾圧してくれたおかげで、列強が戦った第二次世界大戦に関わることなく、新たな世界構築に向かうことができると喜んでいたようです。この年、王仁三郎は新たな時代に向けて教団規則が制定し、愛善苑を「大本愛善苑」に改めました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;東西冷戦が深刻化し、朝鮮戦争が勃発した昭和25年（1950）、大本愛善苑は「人類愛善新聞」を市民に頒布して世界連邦の必要性を訴え、綾部市は世界連邦都市宣言を採択し、世界連邦宣言自治体全国協議会を開設したのです。これに賛同する自治体が続出し、日本の142自治体（9府県75市区54町4村：平成18年）が世界連邦都市宣言を採択しているのです。昭和27年（1952）、２代教主出口すみが亡くなり、３代教主出口直日が立つと、宗教法人「大本」（おおもと）が設立され、「万教同根」の世界宗教への道がとられます。この年、「大本」は広島に第１回世界連邦アジア会議を招致するとともに、台湾・香港に残る世界紅卍字会、ベトナムのカオダイ教と連携し、キリスト教との連帯も進められました。たとえば昭和52年（1577）、ジェームス・P・モートン聖ヨハネ大聖堂長が「大本」を来訪し、第１回のキリスト教と共同礼拝式「平和と一致」が実現し、さらにバチカン宮殿で大本祭典の執行されたのです。その翌年にネパールのカトマンズに愛善センターが設立され、大本・ヒンズー教・仏教の三教合同鎮座祭を実施しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;昭和55年（1980）、愛善苑は後継者をめぐって三派（大本本部・大本信徒連合会・愛善苑）に分かれました。しかし今でも大本各派にエスペラントが普及し、綾部市へのアジアやヨーロッパからの招致も多く、イスラエルとパレスチナなどの紛争地域の若者を日本へ招待して共同作業や対話をする「綾部プロジェクト」が推進されています。こうした活動から、世界から神道哲学にふれるために綾部、亀岡を訪れる知識人も多いのです。そして平成12年（2000）、綾部市はエルサレム市との友好宣言に調印し、それまでの「綾部世連建設同盟」を「綾部世界連邦運動協会」に改称し、綾部市で第22回世連全国宗教者大会、第22回世界連邦日本大会が開催されたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;最後に大本が蒙古との架け橋となっているということでしめくくりたいと思います。平成２年（1990）、ソビエト連邦の崩壊にともない、蒙古人民共和国は人民革命党と民主化勢力の連立政権へ移行しました。そして国名を「モンゴル国」と改称し共産主義体制を放棄しましたが、経済破綻に近い状況となります。これを大本系の教団は支援しつづけました。平成17年（2005）、出口王仁三郎のモンゴル訪問80周年を期し、ウランバートル市に出口王仁三郎の人類愛善会の理念をうけつぐモンゴル政府公認NGO「人類愛善会モンゴルセンター」が設立されたのです。モンゴル政府はそこに大本開祖、出口なおに憑き、出口王仁三郎が「大陸の大神」と審神（さにわ）した神の神体を祀ること、大本の世界連邦運動や教育支援、農業支援への賛同を表明しています。そして平成21年（2009）、ウブルハンガイ県グチンウス村がモンゴル初の世界連邦都市宣言を採択したのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;丹波の出口なおに憑いた国之常立神（クニノトコタチノカミ）は近代日本を考えさせる国祖の神でした。それが提起した哲学問題、社会問題、経済問題のなにも解決していないことは明らかでしょう。ましてやマスコミの報道にいたっては、政府の機密費をもらって報道を操作するなどということがあるようでは、戦前からの体質を改めたとはいえない状況で大きく信頼性をそこねはじめています。それはともかく、皇道大本が唱えた社会変革構想の妥当性は問われてしかるべきでしょう。けれどもスピルチュアル・ポールを原型とする国之常立神は、今にいたっても、&amp;ldquo;国家という未知&amp;rdquo;を問いかけてくる神でありつづけているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;



    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/4170A9ENRWL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;日本神人伝―日本を動かした霊的巨人たちの肖像 (エソテリカ・セレクション)&quot; /&gt;
            
            日本神人伝―日本を動かした霊的巨人たちの肖像 (エソテリカ・セレクション)
            不二 龍彦
            
                学習研究社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/415AW24FXPL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;異端論断章 (藤田省三著作集 10)&quot; /&gt;
            
            異端論断章 (藤田省三著作集 10)
            藤田 省三
            
                みすず書房
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51C16HM26XL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;&amp;amp;ldquo;公共宗教&amp;amp;rdquo;の光と影&quot; /&gt;
            
            &amp;ldquo;公共宗教&amp;rdquo;の光と影
            津城 寛文
            
                春秋社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/hondashintoku.jpg&quot; alt=&quot;hondashintoku.jpg&quot; /&gt;
            
            本田親徳全集 (1976年)
            本田 親徳
            
                山雅房
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/oishizenshu.jpg&quot; alt=&quot;oishizenshu.jpg&quot; /&gt;
            
            大石凝真素美全集 (1981年)
            大石凝 真素美
            
                大石凝真素美全集刊行会
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51apYjM+yAL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;邪宗門〈上〉 (朝日文芸文庫)&quot; /&gt;
            
            邪宗門〈上〉 (朝日文芸文庫)irimamenohana.jpg
            高橋 和巳
            
                朝日新聞
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/jasoumon_ge.jpg&quot; alt=&quot;jasoumon_ge.jpg&quot; /&gt;
            
            邪宗門〈下〉 (朝日文芸文庫)
            高橋 和巳
            
                朝日新聞
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/irimamenohana.jpg&quot; alt=&quot;irimamenohana.jpg&quot; /&gt;
            
            いり豆の花―大本開祖出口なおの生涯
            出口 和明
            
                八幡書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41B11B0HAZL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;大本神諭 天の巻―民衆宗教の聖典・大本教 (1) (東洋文庫 347)&quot; /&gt;
            
            大本神諭 天の巻―民衆宗教の聖典・大本教 (1) (東洋文庫 347)
            出口 ナオ ; 村上 重良
            
                平凡社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/419JZ92MH8L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;大本神諭 火の巻―民衆宗教の聖典・大本教 (2) (東洋文庫 348)&quot; /&gt;
            
            大本神諭 火の巻―民衆宗教の聖典・大本教 (2) (東洋文庫 348)
            出口 ナオ ; 村上 重良
            
                平凡社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51IHsclr39L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;大本教祖伝 出口なお・出口王仁三郎の生涯&quot; /&gt;
            
            大本教祖伝 出口なお・出口王仁三郎の生涯
            伊藤 栄蔵
            
                天声社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51fbITiqK6L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;巨人 出口王仁三郎&quot; /&gt;
            
            巨人 出口王仁三郎
            出口 京太郎
            
                天声社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/busseppoumetsu.jpg&quot; alt=&quot;busseppoumetsu.jpg&quot; /&gt;
            
            仏説法滅尽経と弥勒下生
            出口 王仁三郎
            
                みいづ舎
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51wKu3gQZhL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合&quot; /&gt;
            
            ルドルフ・シュタイナーと出口王仁三郎の符合
            咲杜 憩緩
            
                ブイツーソリューション
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/nyumouhiwa.jpg&quot; alt=&quot;nyumouhiwa.jpg&quot; /&gt;
            
            出口王仁三郎入蒙秘話
            出口 和明
            
                みいづ舎
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/516PV8LXZUL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;大本襲撃―出口すみとその時代&quot; /&gt;
            
            大本襲撃―出口すみとその時代
            早瀬 圭一
            
                毎日新聞社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41stjNeQDqL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;出口王仁三郎の示した未来へ&quot; /&gt;
            
            出口王仁三郎の示した未来へ
            出口 京太郎
            
                天声社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51DgVlnPb1L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;思想としての右翼&quot; /&gt;
            
            思想としての右翼
            松本 健一
            
                論創社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41yodZ0cxcL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;大川周明の大アジア主義&quot; /&gt;
            
            大川周明の大アジア主義
            関岡 英之
            
                講談社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51SeGxfX9AL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;石原莞爾の時代―時代精神の体現者たち&quot; /&gt;
            
            石原莞爾の時代―時代精神の体現者たち
            田中 秀雄
            
                芙蓉書房出版
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51U7OlPVC7L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;アジア英雄伝―日本人なら知っておきたい25人の志士たち&quot; /&gt;
            
            アジア英雄伝―日本人なら知っておきたい25人の志士たち
            坪内 隆彦
            
                展転社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/sekairenpo.jpg&quot; alt=&quot;sekairenpo.jpg&quot; /&gt;
            
            世界連邦の構想 (1977年) (講談社学術文庫)
            谷川 徹三
            
                講談社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51GJJQNPN6L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;国連を「世界連邦」体制へ―恒久平和確立へ歴史を通観する&quot; /&gt;
            
            国連を「世界連邦」体制へ―恒久平和確立へ歴史を通観する
            長掛 芳介
            
                近代文芸社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/kuraitanimano.jpg&quot; alt=&quot;kuraitanimano.jpg&quot; /&gt;
            
            暗い谷間の賀川豊彦
            雨宮 栄一
            
                新教出版社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41JbESCAafL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;霊界物語〈第1輯〉&quot; /&gt;
            
            霊界物語〈第1輯〉
            出口 王仁三郎
            
                八幡書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/reikaimonogatari_2.jpg&quot; alt=&quot;reikaimonogatari_2.jpg&quot; /&gt;
            
            霊界物語 (第2輯)
            出口 王仁三郎 ; 霊界物語刊行会
            
                八幡書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/reikaimonogatari_3.jpg&quot; alt=&quot;reikaimonogatari_3.jpg&quot; /&gt;
            
            霊界物語 (第3輯)
            出口 王仁三郎 ; 霊界物語刊行会
            
                八幡書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/reikaimonogatari_4.jpg&quot; alt=&quot;reikaimonogatari_4.jpg&quot; /&gt;
            
            霊界物語 (第4輯)
            出口 王仁三郎 ; 霊界物語刊行会
            
                八幡書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/reikaimonogatari_5.jpg&quot; alt=&quot;reikaimonogatari_5.jpg&quot; /&gt;
            
            霊界物語 (第5輯)
            出口 王仁三郎 ; 霊界物語刊行会
            
                八幡書店
            
            
        
    



&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;</description>
      <pubDate>Fri, 20 Aug 2010 12:00:00 +0900</pubDate>
      <dc:subject>http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=2037</dc:subject>
      <dc:date>2010-08-20T12:00:00+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>vol.2 大全集と高層ビルの関係</title>
      <link>http://www.honza.jp/author/3/ishiguro_kengo?entry_id=1995</link>
      <description>&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/IK_vol_2_title.jpg&quot; alt=&quot;IK_vol_2_title.jpg&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/IK_vol_2_ber03.jpg&quot; alt=&quot;IK_vol_2_ber03.jpg&quot; /&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;☆ひと目でわかる東京都内&amp;hellip;全集をもとに建てられたビル一覧&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;



                                                         



&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/ika_2_trim.jpg&quot; alt=&quot;ika_2_trim.jpg&quot; /&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;［&amp;uarr;画像をクリックし拡大図をご覧下さい］&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;※PDFファイルをダウンロードできます&amp;rarr;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/pdf_icon_b.gif&quot; alt=&quot;pdf_icon_b.gif&quot; /&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/IK_vol_2_ber03.jpg&quot; alt=&quot;IK_vol_2_ber03.jpg&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;☆ジョイントベンチャーの幕開け&lt;br /&gt;
&amp;#12288;一人の作家の著作すべて、もしくは一定の枠組みで括った文化的作品を網羅、収録する全集は、本の愛好家にとって評価が高いものです。本の歴史と共に歩んできたこの全集というシステムですが、近代日本においても印刷技術の進歩とともにさまざまな大全集が生まれています。出版社も「ビジネスの側面を度外視してでも遺すべきである」との理念に基づき、単体での採算を考えずとも、数十巻を数える偉大なる作家のゴリッとした全集を刊行していったのです。しかし文化を継承していこうというこのような動きとは裏腹に、切った張ったの実業界がこの全集という量的パワーに注目し始めたのです。&lt;br /&gt;
&amp;#12288;高度経済成長期に入り、赤坂の料亭では、大手ゼネコン幹部と、出版社の辣腕編集者や重役の会合が頻繁に見受けられるようになっていきます。その目的は、巻を重ねた壮大な全集のスケール感、厚みを出す高度な技術を、建設予定の高層ビルに取込んでいこうというものでした。紙とコンクリートが手を結んだそのプロジェクトこそが、ジョイントベンチャーの黎明だったのです。各ゼネコンが秘密裏に装幀室に派遣にした設計士は、全集がいかに耐震性に優れた造本になっているかを知りがく然とします。こうして日々設計士の分析が続き、東京に次々と高層ビルが建設されていきました。&lt;br /&gt;
&amp;#12288;我が石黒総研の今回の調査で明らかになったのが、都内主要ビルのモデルとなった全集。ベールに包まれていたその実態が、今、白日の下にさらされます。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/ika_2_IGimage_2.jpg&quot; alt=&quot;ika_2_IGimage_2.jpg&quot; /&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/IK_vol_2_ber03.jpg&quot; alt=&quot;IK_vol_2_ber03.jpg&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;☆参考図書&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;



    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/teduka.jpg&quot; alt=&quot;teduka.jpg&quot; /&gt;
            
            手塚治虫漫画全集全400巻
            &amp;nbsp;手塚治虫
            
                講談社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/bakabon.jpg&quot; alt=&quot;bakabon.jpg&quot; /&gt;
            
            赤塚不二夫漫画大全集&lt;br /&gt;
            全271巻
            赤塚 不二夫
            
                小学館
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/shiba.jpg&quot; alt=&quot;shiba.jpg&quot; /&gt;
            
            司馬遼太郎全集&lt;br /&gt;
            全67巻
            司馬 遼太郎
            
                文藝春秋
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/61zoVGAAYcL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;こちら葛飾区亀有公園前派出所 170 (ジャンプコミックス)&quot; /&gt;
            
            こちら葛飾区亀有公園前派出所&lt;br /&gt;
            全170巻(ジャンプコミックス)
            秋本 治
            
                集英社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/seicho.jpg&quot; alt=&quot;seicho.jpg&quot; /&gt;
            
            松本清張全集&lt;br /&gt;
            全66巻
            松本 清張
            
                文藝春秋
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/IK_2_book_image_b.jpg&quot; alt=&quot;IK_2_book_image_b.jpg&quot; /&gt;
            
            マルクス=エンゲルス全集全52巻
            Marx-Lenin主義研究所
            
                大月書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/origuchi.jpg&quot; alt=&quot;origuchi.jpg&quot; /&gt;
            
            折口信夫全集&lt;br /&gt;
            全51巻
            折口 信夫
            
                中央公論社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/mishima.jpg&quot; alt=&quot;mishima.jpg&quot; /&gt;
            
            決定版 三島由紀夫全集&lt;br /&gt;
            全44巻
            三島 由紀夫
            
                新潮社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/IK_2_book_image_c.jpg&quot; alt=&quot;IK_2_book_image_c.jpg&quot; /&gt;
            
            レーニン全集&lt;br /&gt;
            全51巻
            Marx・Engels・Lenin研究所 ; マルクス=レーニン主義研究所
            
                大月書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/genso.jpg&quot; alt=&quot;genso.jpg&quot; /&gt;
            
            世界幻想文学大系&lt;br /&gt;
            全45巻
            紀田 順一郎 ; 荒俣 宏
            
                国書刊行会
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/rohan.jpg&quot; alt=&quot;rohan.jpg&quot; /&gt;
            
            露伴全集&lt;br /&gt;
            全40巻
            幸田 露伴
            
                岩波書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/utimura.jpg&quot; alt=&quot;utimura.jpg&quot; /&gt;
            
            内村鑑三全集&lt;br /&gt;
            全40巻
            内村 鑑三
            
                岩波書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/IK_2_book_image_a.jpg&quot; alt=&quot;IK_2_book_image_a.jpg&quot; /&gt;
            
            柳田国男全集&lt;br /&gt;
            全36巻＋別巻2
            &amp;nbsp;
            
                筑摩書房
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/412mF3WmirL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;白川静著作集〈別巻〉甲骨金文学論叢(上)&quot; /&gt;
            
            白川静著作集&lt;br /&gt;
            全12巻＋別巻19
            白川 静
            
                平凡社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/nihonemaki.jpg&quot; alt=&quot;nihonemaki.jpg&quot; /&gt;
            
            新修日本絵巻物全集&lt;br /&gt;
            全32巻
            &amp;nbsp;
            
                角川書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/hajime.jpg&quot; alt=&quot;hajime.jpg&quot; /&gt;
            
            中村元選集&lt;br /&gt;
            全36巻
            中村 元
            
                春秋社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/miyamoto.jpg&quot; alt=&quot;miyamoto.jpg&quot; /&gt;
            
            宮本常一著作集&lt;br /&gt;
            全51巻
            宮本 常一
            
                未来社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/shinran.jpg&quot; alt=&quot;shinran.jpg&quot; /&gt;
            
            親鸞全集&lt;br /&gt;
            1巻＋別巻4
            &amp;nbsp;
            
                春秋社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://www.honza.jp/images/no_image.jpg&quot; alt=&quot;キーツ全詩集 第1巻&quot; /&gt;
            
            キーツ全詩集&lt;br /&gt;
            3巻＋別巻1
            ジョン・キーツ
            
                白凰社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/4456/herderlin2.jpg&quot; alt=&quot;herderlin2.jpg&quot; /&gt;
            
            ヘルダーリン全集全4巻
            ヘルダーリン
            
                河出書房新社
            
            
        
    



&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;</description>
      <pubDate>Fri, 13 Aug 2010 02:00:00 +0900</pubDate>
      <dc:subject>http://www.honza.jp/author/3/ishiguro_kengo?entry_id=1995</dc:subject>
      <dc:date>2010-08-13T02:00:00+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>第７柱　国常立尊－５◎木曽の御嶽信仰とお筆先の啓示</title>
      <link>http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=1925</link>
      <description>
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi_7_5.gif&quot; alt=&quot;takahashi_7_5.gif&quot; /&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;#12288;｢木曽節｣(きそぶし)に「木曽のな～、中乗りさん、木曽の御嶽山（おんたけさん）はなんじゃらほい」と歌われます。「中乗りさん」は木曽川を流して降ろす檜（ひのき）の木材を組んだ筏（いかだ）をあやつる筏師です。この歌詞は旅人が木曽川を下る筏師に向かって「木曽の御嶽山とはどんな山ですか」と問いかける光景を描き出しています。御嶽山にまつわる伝承によれば、大己貴命（オオナムチノミコト：大国主命）が国譲りしたとき、これに反抗した建御名方命（タケミナカタノミコト）が諏訪に下り、信州の各地を開発して木曽にきたとされます。このとき、建御名方命は御嶽山の姿に感動し、山上に大元霊（おおもとのみたま）であり、天地開闢（かいびゃく）の神でもある国常立尊（クニトコタチノミコト）を中心に、国土を開発した大己貴命、その国土開発に協力した少彦名命（スクナヒコナノミコト）を祀ったとされます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;持統天皇が全国の幹線道路を整備し、東山道（とうさんどう）が開通すると、御嶽山の威容は奈良の都に聞こえ、大宝２年（702）、信濃国司となった高根道基が御嶽山頂上に御嶽神社の社祠(しゃし)を創建しました。光仁天皇の宝亀５年（744）、陸奥の蝦夷との戦争がはじまり、信濃国司の石川望足は勅命を奉じて御嶽山に登頂し、東山道を守る御嶽山に悪疫退散を祈願しています。その後、御嶽山は都人から忘れられますが、延長３年（925）、白川少将重頼が登拝して山頂の神殿を再建し、里宮の御嶽神社(みたけじんじゃ：長野県木曽郡王滝)が創建されたと伝えられます。この白川重頼が御嶽山登拝の背景に悲しい物語が語り伝えられています。&lt;br /&gt;
&amp;#12288;京都の北白川に住む白川重頼の嫡子、阿子多丸は継母の岩永姫にいじめられ、出家して奥州の叔父のもとに向かいましたが、木曽の板敷野の集落で病に倒れ、15才の若さで亡くなったのです。臨終を迎えた阿子多丸はみずからの霊を御嶽に祀ってくれるよう村人に言い残しました。すると阿子多丸の霊が白川重頼の夢にあらわれ、白川重頼とともに木曽にきた姉の利生御前は御嶽山に入って７合目あたりで行方不明になったと伝えます。これによって御嶽山の７合目より上は女人禁制になったとされます。そして白川重頼も利生御前を弔って自害してしまいました。これを伝え聞いた岩永姫も木曽にきて、みずからの浅ましさを後悔して自殺をとげたというのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;それで御嶽山の山頂の最高峰は剣が峰で、その左右の峰を継子岳、継母岳といい、そこに阿子多丸と岩永姫の神霊があらわれたと伝えます。このような物語は修験者が構成して御嶽山の霊験とともに語り広めたのです。時代は下って、応保元年（1161）、後白河上皇の勅使が登拝したことがしられます。後白河上皇は熊野修験を統括する聖護院（しょうごいん）を保護していました。このころには聖護院を拠点とする熊野修験(天台系本山派)が御嶽山を道場としていたのでしょう。中世には木曽義仲が少年のころ、御嶽山に登拝して戦勝を祈願したとされ、この一帯は義仲の後裔、木曾氏の領地となり、御嶽山は木曽を守る聖山に戻りました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;江戸時代の広域な開拓事業とともに城下町や新たな村落があらわれると、そこに御嶽山に登拝して国常立尊（クニトコタチノミコト）、大己貴命（オオナモチノミコト）、少彦名命（スクナヒコナノミコト）三神、すなわち木曽大神の霊験をもたらす修験者が訪れはじめます。御嶽の修験者たちは近世の共同体を結ぶ倫理、道徳、独自な精神修養を説きながら、それらをネットワークする役割をはたしました。ところで御嶽山は檜（ひのき）の山であり、尾張徳川家の「御留山」（おとめやま）とされ、入山は基本的に禁止となりましたが、百日の精進潔斎を果たした&amp;ldquo;道者&amp;rdquo;(どうじゃ)と呼ばれる修験者が１両の大金を払ってようやく入山が許可されたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;御嶽登拝をはたした&amp;ldquo;道者&amp;rdquo;は木曽大神の霊験がそなわった聖者として多くの布施にあずかりました。これらの&amp;ldquo;道者&amp;rdquo;は密教を背景とする修験者でしたが、国常立神（クニトコタチノカミ）を人間の心の始原とする神道が浸透するにしたがって仏教色が薄れ、神道的な精神修養のための登拝を導く先達(せんだつ)に移行します。こうしたプロセスに木曽の御岳を庶民の修養の山として開くことを願う運動が高まりました。ことに天明の大飢饉の余燼が残る天明５年（1785）、尾張出身の覚明（かくみょう）という行者が水行潔斎（禊：みそぎ）をしただけで登拝を決行し、黒沢口からの登山道の改修にとりくみ、御岳山頂近くの二の池湖畔で入寂（にゅうじゃく）したのです。これをきっかけに尾張藩も民衆の御嶽山登拝の許可を求める運動を無視できなくなり、寛政４年(1792)、覚明の功績を認めるという公表がなされ、覚明が入山するときに行った軽精進による登拝が許されました。そこに関東から普寛（ふかん）という行者が来訪し、御嶽講を整備したのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;普寛は秩父（ちちぶ）の出身で浅見好八という武芸者でした。浅見好八は修験道場を形成していた三峰山（みつみねさん：埼玉県秩父市）に武芸を鍛錬し、江戸に出て幕政をになっていた酒井親本(さかいちかもと)に見いだされ、剣術道場を開きました。ところが明和元年（1764）、好八は夢幻のうちに不思議な修験者に出会い、「竹刀を捨てて数珠を手にせよ」と託宣されたといいます。そこで出家して普寛となり、日本六十余州遍歴の誓願を立て、諸国を行脚（あんぎゃ）し、越後（新潟県）の八海山(はっかいせん)、上州（栃木県）の武尊山(ほたかやま)を開山し、熊野修験の本山、京都聖護院(しょうごいん)の修験長となったのです。ところが寛政４年(1792)、霊夢にあらわれた覚明に御嶽山の開基を託され、木曽に下って御嶽山の王滝道を開きました。そして江戸の日本橋高砂町に御嶽講を結成したのです。普寛の御嶽講はその弟子たちによって関東、信越方面に広く普及しました。普寛は、享和元年（1801）、武蔵の本庄で亡くなり、普寛霊神として普寛霊場(普寛堂：埼玉県本庄市)に祀られています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;普寛(ふかん)を始祖とする東国の御嶽講に対して、天保年間(1830～1843)、木曽福島の児野嘉左衛門（こじまかざえもん：義倶霊神）が覚明講のネットワークに乗り出し、木曽、伊那から覚明の出身地の濃尾平野、さらに関西方面にも御嶽講が広がりました。近年の御嶽講の研究によれば、御嶽講は浄土真宗が進出しなかった地域に根づいたことが知られます。それは御嶽登拝によって心身を浄化して地域共同体の振興につくし、宇宙始原の国常立尊（クニトコタチノミコト）の境地に近づいて、死後は国常立尊に融合するという神道的な救済思想を形成していったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi_7_5_1.jpg&quot; alt=&quot;takahashi_7_5_1.jpg&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
木曽川の筏から木曽御岳を望む&amp;#12288;穐里籬島編『木曽路名所図会』より&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;幕末のころには、夏になると白装束で金剛杖(こんごうづえ)をたずさえ、鈴を鳴らしながら中山道を往来する御嶽詣(おんたけもうで)の集団が多く見られました。それらは心身清浄、除災招福、子孫繁栄を祈願しながら、支配階級への民意の圧力としてはたらき、とくに疫病対策に実績をあげたのです。この御嶽講を結成した行者には霊神号を追贈することが一般化しました。これらの行者の多くは地域の有志が講を結成する趣意書を書き、賛同者を集め、基金を積み立てて結成されたのです。御嶽山中はもとより、御嶽講が成立した集落には先達の事跡を彫りこんだ霊神碑が多数残されています。この御嶽講の新設は明治に入っても、いや今でも持続しているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;明治維新に御嶽信仰も変化を迫られます。神仏分離政策、修験道廃止令に御嶽講の結集を呼びかけたのが江戸に油問屋を営みながら講元をつとめる下山応助（しもやまおうすけ）です。日本の西欧化を推奨する「明六雑誌」が創刊された明治６年（1873）、応助は江戸の御嶽講を近代国家が要請する宗教教団に改めて御嶽教会とし、平山省斎（ひらやませいさい：1815～1890）が設立した大成教会と合同します。平山省斎は最後の将軍、徳川慶喜の側近、幕府の外交官でしたが、明治維新に氷川神社（ひかわじんじゃ：埼玉県大宮市）の大宮司となり、&amp;ldquo;外教&amp;rdquo;（がいきょう：キリスト教による西欧文明）から日本精神を守ろうとする論陣を張ったのです。そして御嶽教会をはじめ、禊教(みそぎきょう)・淘宮(とうきゅう)・天学・蓮門・心学といった民間の講社を大成教会に結集し、明治維新期の廃仏毀釈と国家神道の独断に対抗し、民間に自発した神道の振興をはかろうとしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;明治７年（1874）、キリスト教が解禁され、信教の自由が認められると、平山省斎は民間に発展していた神道が衰退するのを憂いて、その近代的な組織化（教団化）をすすめました。明治15年（1882）、省斎が弱小の民間神道を結集した神道大成派を成立させると、御嶽教会は神道御嶽派として政府に認可されて独立し、御嶽教と改称して東京神田区小川町に本部をおいたのです。余談になりますが、明治政府が神道系の宗教として認めた13教団があり、これを｢神道十三派｣といい、出雲大社教・御嶽教・黒住教・金光教・実行教・神習教・神道大成派・神道大教・神理教・枎桑教・禊教・大成教・天理教をさします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;しかし明治維新に木曽の御嶽山は登山自由の山となって、霊山としての意義は失われ、御嶽修験の基盤は崩れさりました。そこで昭和12年(1937)、渡辺銀治郎が御嶽教管長に就任し御嶽信仰の復興をはかり、精神修養の根本道場の御嶽山への登拝修行を奨励し、教団の組織化をすすめて、御嶽講の連合体から近代的な宗教教団への脱皮しようとします。このような流れの中で、江戸時代いらいの御嶽講社には御嶽教に所属しない道を選んだものも多く、今でも宗教法人として自主的な地域活動をつづける講もあるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;昭和20年(1945)、東京大空襲に御嶽教大本庁は消失し、御嶽教は木曽福島に移転しました。そして昭和23年(1948)、東京の大本庁跡地を売却し、&amp;ldquo;木曽大教の神殿&amp;rdquo;（山の神殿）を完成して再出発をはかったのです。そして戦後の市民にむけた「教憲・規則」を制定し、「七五三の教」（なごみのおしえ）を確立しました。「七五三の教」とは現在の御嶽教の教義で、七行道（汎信・温愛・和合・感謝・奉仕・勤労・永世）、五教言（登拝して心を洗う・山を抜く力で祈る・愛憐の涙を流せ・笑ってとけあえ・戒行衣を常にまとえ）、三教律（神徳神恩に報じ、人倫の道を全うし、本業正紀をおこたるな）としています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;御嶽教は昭和29年(1954)から御嶽山頂上に御神火祭を開始し、これは今や木曽の一大イベントとして定着しました。さらに御嶽教は布教の拠点となる本部造営を計画し、昭和39年(1964)、御嶽山大和本宮（里の本部：奈良市大渕町）の神殿を完成したのです。こうして国常立尊（クニトコタチノミコト）・大己貴命（オオナモチノミコト）・少彦名命（スクナヒコナノミコト）を三位一体とする木曽大神をめぐる御嶽信仰は御嶽講のネットワークを保持しながら、御嶽教として生き残りました。多くの山岳信仰の講社が明治維新をむかえて廃滅していったのですが、今でも御嶽教はおよそ500講社をネットワークし、特異な神道を標榜する山岳宗教として活動をつづけているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;御嶽教は神道の&amp;ldquo;神・霊・心の一元論&amp;rdquo;にもとづき、個々の心を御嶽山における修行によって浄化し、大元の神の国常立尊（クニトコタチノミコト）に融合するという教義を基本としていました。これに対して、&amp;ldquo;神・霊・心の一元論&amp;rdquo;によるならば、大元の神が人間に憑いて、神命を下すということもおこりえます。これは民俗学では&amp;ldquo;シャーマニズム&amp;rdquo;と呼ばれます。&amp;ldquo;シャーマン&amp;rdquo;は東北アジアのツングース語で、祈祷師、巫（かんなぎ）をさし、それがトランス状態に入って神仏や霊と交流し、その意思を解読して行動する宗教形態を&amp;ldquo;シャーマニズム&amp;rdquo;というわけです。漢字の起源をなす甲骨文字にせよ、メソポタミアの楔形文字の起源をなすシュメールの絵文字、あるいはエジプトの神聖文字にせよ、これらは巫（かんなぎ）を介した神の託宣を書き記すために発明されたのでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;インドのヴェーダ、ギリシア神話は｢神の託宣｣の世界であって、そこに巫祝（ふしゅく）が介在していました。あるいはキリスト教の『聖書』にも「主はこう言われる」とか、「主の言葉」という文言が随所に見られます。これは唯一神エホヴァが預言者の口を介していわしめたことで、そこにシャーマニズムが生きています。この｢託宣｣は英語で&amp;ldquo;oracle&amp;rdquo;（オラクル）といい、&amp;ldquo;部族・国家の運命を左右する霊感&amp;rdquo;とされたのです。ユダヤ教では選民に神の託宣があるとし、これが白人優越として欧米キリスト教におよぶのですが、日本の神道では神の託宣は宇宙を開闢（かいびゃく）した神の初発の原動力がすべての物質に宿り、生命現象や言語現象、人間の心の活動におよぶがゆえにおこるとします。これは為政者にとって厄介（やっかい）な普遍神学でもあったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;江戸時代も後期に入ると、日本人の識字率は高まり、農民の指導者やとくに女性の間でも文字を読み書きすることが当たり前になってきます。すると神も巫（かんなぎ）に憑いて、オートマティスム（自動記述）によって神命（神の指令）を下すようになるのです。神が「お筆先」によって託宣を下した有名な例に、天理教を開いた中山みき（1798～1887）があります。中山みきは、寛政10年（1798年）、大和神社(おおやまとじんじゃ：天理市新泉町星山)の森の北、西三昧田村(現天理市三島)の郷士的な庄屋の家に生まれ、綿花の仲買をかねる富裕な農家、中山善兵衛のもとに嫁いだのです。みきは貧民、小作を思いやり、浄土宗の結縁を受け、一男三女をもうけ、天保の飢饉のなかで棄てられる運命にあった子どもたちをもらって育てる賢夫人として近郷から慕われていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そうした中で、みきは来世に救いをもとめる浄土信仰から現世の苦しみを除く信仰を模索するようになっていったようです。みきが41歳のとき、長男の秀司が足痛で苦しみ、古き物部氏が奉斎した石上神宮(いそのかみじんぐう：天理市布留町)の神宮寺、内山永久寺の配下の山伏、市兵衛（いちべえ）に治癒の祈祷を頼みました。そこには密教的な祈祷によって神を呼び出し、託宣をうける｢柱源神法｣(はしらもとのかみののり)が伝わっていたのです。内山永久寺に残された『峰中灌頂本記』(ぶちゅうかんじょうほんき)に｢柱源神法｣の伝授の切紙が付され、それよってユニークな神を招く方法の概要が知られます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;少し｢柱源神法｣にふれておきますと、まず独自な壇（だん）を築き、そこに混沌から天地が生じ、天(男性性)と地(女性性)から万物を生んだウル母（始原の母）とウル父（始原の父）が生じるという神話的手続きを儀礼としておこないます。このとき行者は死んだと観念され、壇上に出現した始原の母と父が和合し、その子としての大日如来となって再生したとされるのです。この大日如来となった行者は&amp;ldquo;天地を結ぶ柱&amp;rdquo;でもあり、そこに祈祷の対象となる神を招かれます。大日如来となった行者が招いた神は加持代(かじだい)というシャーマンに憑（つ）いて神意を語り、それを行者が解読して、病気治癒であれば、療法を指示しました。これは太陽復活神話が適応され、&amp;ldquo;天地を結ぶ柱&amp;rdquo;は中世神道に大元神とされた国常立尊(クニトコタチノミコト)のメタファーのようです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この｢柱源神法｣の独自な天地分判と天地を結ぶ柱の神のイメージは天理教が唱えた神話の構成に継承され、天理教の｢ぢば｣に設営された「かんろだい」の構造や教主を真柱（まはしら）とすることなどに反映しています。もっとも天理教の｢十全の守護｣の筆頭にあげられる｢くにとこたちのみこと｣（国常立命）は天から地にふりそそぐ雨の神にして水の守護神、人間の目のうるおいであり、巨大な龍、国床（くにとこ：地盤）を見定めた男神、人間の精（魂）となる｢月の親神｣です。これは火の守護にして身体の温みの神、12頭３尾の大蛇、人間の母胎となった女神、｢日の親神｣とされる｢をもたりのみこと｣（面足命）と一対をなし、初めから世界を構成していた神とされています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;ところで中山みきが夫の善兵衛といっしょに山伏の市兵衛を訪れたとき、加持代(かじだい)が不在で、みきが加持代をつとめることになり、山伏の市兵衛が祈祷すると、「元の神」、「実の神」と自称する未知の神（親神：おやがみ）が憑依(ひょうい)し、「みきを神のやしろとしてもらいたい」といったと伝えられます。善兵衛は拒否したのですが、神はみきから離れず、「申し出を受け入れるなら、世の人々を救済するが、拒めば中山家を滅ぼす」というので、とうとう善兵衛は神の申し出を承諾しました。それは天保９年（1830）の10月26日とされ、これが天理教の「立教の元一日」となっています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;みきはみずからを社（やしろ）とした神について、「この神様はなあ、元の神と言い、実の神様やで。元の神様とは拝み祈祷の神やない。元こしらえた神というて、元々何にもなかったところから人間をはじめすべてのものを創り初められた神様や」というばかりでした。そして「実の神というのはなあ、真実の神ということやで。すべてをお創りになったというだけでなく、それ以来つねに変わらず、ふしぎなお働きによって、あらゆるものを育て、温かい恵みをもって御守護下される神様や」といい、名前をつけたら、その真の意味が失われると思っていたかのようです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;それからの中山みきは神命にしたがって、被差別民をふくむ貧民に財産をあたえ、幕末の混迷にあえぐ人々の救済に明け暮れ、中山家は没落します。みきと中山一家が極貧に落ちたとき、みきのボランティアに加わる人々が集りました。その多くが難産で生死の境をさまよい、みきに救われた妻であり、母となった女性とその家族でした。こうなると、｢元の神、実の神｣の名が必要になります。嘉永６年（1853）、17歳になったみきの末娘こかん（小寒）が信徒の子どもを連れて大阪に神名を流しに行き、辻立ちして拍子木を打ちながら、「なむ天理王命（てんりおうのみこと）」とくりかえし唱えました。これが天理教の布教「においがけ」のはじまりとなったのです。少女と子どもに最初の神名の流布をまかせたことにも中山みきの思いが結集されているようです。こうした布教は寺社との軋轢（あつれき）を生じ、封建秩序を乱す行為として迫害されることも多く、みきは陣屋に呼び出されて天理王を祀るのを禁止されました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そこでみきは京都の神道管領、吉田家に裁可を求めます。みきの娘こかんが中山小嘉舞の名義で吉田神社に修養し、文久４年（1863）、みきに憑（つ）いた神を天理王命（てんりおうのみこと）とし、吉田神祇管領より裁許状を受けたのです。これによって木綿襷（ゆうたすき）を掛ける許可と裁許状が交付されました。この裁許状は天理教に神道系の中臣祓い（なかとみのはらい）、陰陽道系の三種祓い、仏教系の六根清浄祓いを実施することを許可しました。農家の主婦に｢元の神｣が憑依（ひょうい）して、社会の救済活動を命じることは江戸時代の神道に抵触（ていしょく）しなかったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;元治元年（1864）、天理教への迫害はおさまり、みきは産後のひだちに苦しむ妻を救われた大工、後に天理教を支えた神道家となる飯降伊蔵（いぶりいぞう）の協力をえて、中山家の屋敷跡にささやかな&amp;ldquo;つとめ場所&amp;rdquo;（祭祀場）を設（もう）け、｢天の理を統べる神｣を讃(たた)える『みかぐらうた』をつくり、神楽のてぶりや鳴り物の稽古をはじめます。しかし慶応4年（1868）９月８日、明治政府が改元の令を出して明治元年となり、吉田神道の裁可も反故(ほご)とされ、神仏分離、廃仏毀釈の嵐のなかで民間の神道への抑圧（よくあつ）が強まったのです。ところが中山みきに親神の天理王命(てんりおうのみこと)はたびたび憑依（ひょうい）し、試練となる神命（しんめい）を与えるようになりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;明治元年（1868）、みきは天理教の祭祀儀礼となる「みかぐらづとめ」を完成しましたが、翌年の正月から、親神は頻繁（ひんぱん）にみきにチャネリングし、&amp;ldquo;お筆先&amp;rdquo;、すなわちオートマティスム（自動記述）によって神意を伝えはじめたのです。これによって明治６年（1873）、宇宙と人間創造の場、天理王命が人間の守護や救済が展開する聖域「ぢば」を定め、そこに設けられる「かんろだい」の雛形（ひながた：モデル）を示しました。明治７年（1874）、信教の自由が認められますが、国家神道が認める記紀に記載された神の埒外（らちがい）にあった天理王命の信仰への抑圧は強くなりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この年、77歳になった中山みきは呪術祈祷、医療妨害で取調べを受け、その前後に18回も投獄されたのです。天理教のボランティア活動が棄民（きみん）に近い差別をうけた結核やコレラ、疱瘡などの伝染病患者の救済にあたったことが彷彿とされます。この弾圧の渦中に、みきは「かんろだい」の周囲で天理教の幹部が「みかぐらうた」にあわせて「かんろだいのつとめ」をはたすよう指示したのです。これは親神がお筆先に伝えたユニークな宇宙創生神話によっています。それは天理教の経典『こふき』（泥海古記：どろうみこふき）にまとめられているので、おおまかに紹介しておきましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;『こふき』によれば、元の親神は天地を創造しましたが、月の男神｢あめのとこたち｣、日の女神｢おもたり｣があるばかりで、地上は一面の泥海（どろうみ）でした。それを味気なく思った親神は人間をつくりだし、その&amp;ldquo;陽気暮らし&amp;rdquo;(ようきぐらし)を見たいと思い、そのための道具の神々を創生しました。泥海から「うを」（岐魚）と「み」（白蛇）をとりよせ、「うを」を男雛型（おとこひながた）、「み」を女雛型（おんなひながた）としたのです。そして鯱(しゃち)から男の道具をとり出して「うを」につけて「つきよみのみこと」、亀から女の道具をとり出して「み」につけて「くにさづちのみこと」としました。ついで鰻(うなぎ)に&amp;ldquo;飲み食いのわざ&amp;rdquo;をつけて「くもよみのみこと」、鰈（かれい）に&amp;ldquo;息ふきのわざ&amp;rdquo;をつけて「かしこねのみこと」、黒蛇（くろぐづな）に&amp;ldquo;引き出しのわざ&amp;rdquo;をつけて「をふとのべのみこと」、河豚（ふぐ）に&amp;ldquo;切るわざ&amp;rdquo;をつけて「たいしょくてんのみこと」としたというのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この天地と人間の創造神話には性交によって赤子がはらまれ、食欲をもって産道を引き出されて呼吸し、へその緒を切って自立する過程が宇宙創生に重ねられています。&amp;ldquo;陽気ぐらし&amp;rdquo;の道具とは人間が生まれおちるときになくてはならない機能をもたらす神々でした。こうして元の神は&amp;ldquo;陽気ぐらし&amp;rdquo;の道具を整え、泥海の中の泥鰌（どじょう）を食べて人間の「たね」（魂）としました。そして月の親神（くにとこたち：国常立）は「いざなぎ」の身体に入り、日の親神（をもたり：面足）は「いざなみ」の身体に入り、生殖によって人間を創る方法を教えたのです。そこで「いざなぎ」は３日３夜に九億九万九九九九人の子種を「いざなみ」の胎内に宿しこみましたが、産みおろした人間はなかなか育たず、虫、鳥、畜類(ちくるい)などに八千八度(はっせんやたび)、生まれかわりました。このような出直し(でなおし)をくりかえした人間も九千九百九十九年たって滅んでいき、最後に残った「めざる」（女の猿）からすべての人類が産まれたというのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この進化論的な人類発生神話は、みきが難産の救済につくし、多くの流産、赤子の誕生を直視してきたことによるのでしょう。みきは「このどぢよ（泥鰌）&amp;#12288;なにの事やとをも（思）ている&amp;#12288;これにんけん（人間）のたねであるそや」と詠んでいます。人間の発生段階が泥鰌のような姿をしているという事実が、みきの語る神話に反映していました。稀代の生物学者エルンスト・ヘッケル（Ernst Haeckel：1834～1919）は棘皮動物（きょくひどうぶつ）などの変態を観察して細密に描くうちに「個体発生は全体発生をくりかえす」、すなわちどんな生物の個体もその進化過程をくりかえして生まれてくると確信しました。これは現在の発生学では常識ですが、みきは妊婦の救済体験の中で流産した赤子を供養するうちにこれに気づいたようです。そして最初の人間を女性の猿とすることも画期的で、今風にいうなら天理教の「ルーシー」というべきでしょう。ともあれ、こんなフェミニンな神話は世界をみまわしてもほとんどないのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;このような天理王命の世界生成の場として、「ぢば」の中心に「かんろだい」の木製の雛形が設営されています。それは弾圧によって撤去されたこともありましたが、今も天理教本部の神殿にある聖域「ぢば」の中心に埋もれ、その四方が礼拝所となっているのです。この神域の屋根に６尺四方のくりぬきがあり、日光や雨がふりそそぎます。これは天地を結ぶ神を空間に象徴する稀有な建築といえましょう。正式の「かんろだい」は、明治14年（1881）、中山みきが滝本村に石見（いしみ）にでかけ、正六角形の石材を十三段に積み上げた石柱の上に５升入りの平鉢を乗せた形に構成しようとしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;その石材の六角はすべての実在を構成する元素、六大（地・水・火・風・空・識）をあらわします。その13段の構成は、諸説があるものの、いちばん下に神の社となった親様（中山みき）、その上に託宣を読み解く本席（審神者：さにわ）、その上に｢くにとこたち｣、｢をもたり｣から｢いざなぎ｣、｢いざなみ｣までの&amp;ldquo;元の十柱&amp;rdquo;の神の座があり、いちばん上は初めて｢においがけ｣を実践し、救済活動にあけくれて早逝したこかん（小寒）の座となっています。｢かんろだい｣の上の平鉢は親神が天からくだす食物（じきもつ）とされる甘露（かんろ）を受ける装置です。この柱に天理教の世界像が凝縮されていました。その周囲におこなわれる「かんろだいのつとめ」では『こふき』の神話が象徴的な歌舞として演じられます。この&amp;ldquo;陽気づとめ&amp;rdquo;を天理王命がことほいで甘露の法雨をそそぎ、定命(115歳の寿命)が与えられるとするのです。こうしてみると、中山みきに憑いた神がもたらす救いとは人間の男と女が夫婦になって子供を生み、神が与えた寿命をまっとうできる世の中にするということでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi_7_5_2.jpg&quot; alt=&quot;takahashi_7_5_2.jpg&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
「かんろだい」の構成図&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;しかし中山みきの女性感覚にみちあふれた神話を許容する度量は明治政府にはなかったのです。明治15年（1882）、奈良警察署長が部下を率いて、２段まで積んだ「かんろだい」を取り壊し、石材をもちさったのです。そして神道本局に主神はいわゆる神道にある神、経典は記紀とし、人間を万物の霊として魚などの魂と混同しないという誓約書を提出させられて神道の一派と認められました。明治19年（1886）、中山みきが亡くなると、その側近で神命の解読にあたっていた本席の飯降伊蔵（いぶりいぞう）と初代真柱となった中山みきの外孫、中山眞之亮が教団の中心となったのです。そして石材で｢かんろだい｣が築かれるときは、親様（おやさま：教祖）の中山みきに憑（つ）いた神が啓示した救いが実現されたときとされたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;明治29年（1896）、天理教は朝鮮に教線を伸ばして人権問題に取り組み、日清戦争に反対します。これは「ひのきしん」や男女同席の集会、伝染病者の救済活動とともに国会で問題視され、ふたたび弾圧が強まりました。明治40年（1907）、長きにわたって弾圧に抗してきた本席の飯降伊蔵（いぶりいぞう）が亡くなります。このとき、伊蔵は天理王命の啓示を媒介する巫女、教祖の中山みきに仕えた霊能者、上田ナライトを二代本席に推していました。しかし天理教団の中枢はナライトを排斥し、親神の啓示は教祖にのみくだされたものとしたのです。ここに天理教は神の啓示をうけて行動するシャーマニズムから教祖の言葉を解釈して行動する宗教に変貌しました。こうして天理教は内紛をはらみながら戦争協力に合意し、忠君愛国や同胞愛をもりこんだ『天理教典』（明治経典）を作成し、明治41年（1908）、神道十三派の天理教として公認されたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;それまで天理王命が世界に広がる人類を生み出したという神話から、海外への布教を試みてきた天理教は、大正14年（1925）、天理外国語学校を開校しました。これは神道が日本人の固有の信仰から世界の宗教に脱皮した最初の事例となったのです。ここに天理教は世界にわかれた同胞の人類学的な研究、考古遺物、文明の成果の収集をはじめます。ことに丹波市村(現奈良県天理市)出身の三井物産に活躍した実業家、洋画家でもあった岩井尊人（いわいたかひと）はイギリスに渡り、ミレー、バーン・ジョーンズ、ロセッティ、ヴァラドンらの素描をふくむ版画・素描をコレクションし、昭和３年（1928）、天理図書館の開館にあたって、これを寄贈しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この昭和３年、岩井尊人は天理教の独自な神話を評価し、『泥海古記』を刊行しますが、すぐさま発禁となりました。岩井尊人はなおも「Out of Tenrikyo」を海外に向けて発刊し、天理教への国際的な理解を求めたのです。このとき、右翼系の大日本大愛会の主宰者、山中重太郎が天理教の幹部、さらには岩井尊人を不敬罪で告訴し、天理教の前途に暗雲がたちこめます。こうした中で、昭和５年（1930）、天理中学校に「支那風俗展覧会」を開催したことにはじまる考古資料を保管する天理参考館が設営されたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;第二次世界大戦を目前に天理教の弾圧は強まり、『泥海古記』は国体を混乱させ、教団の行動は大逆不敬にあたるとされ、「ひのきしん」は私有財産の没収であり、共産主義の実行ともされて国会でも糾弾されたのです。ここに天理教は草創の理念を棄てて教義を改変し、国家の戦争に協力していき、この変節は天理教に大きな傷痕を残したのです。けれども、昭和20年（1945）、第二次世界大戦が終了すると、２代真柱の中川正善は「天理教はもはや神道十三派ではない」と宣言し、本来の天理教に戻る方針をとり、発禁となっていた天理教の教理をまとめて「天理教教典」を編纂したのでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そうした中で天理教の本部がある丹波市町をふくむ６町村が合併して、新たな市となることになり、昭和29年（1954）、天理教は山辺市の案を出していたものの、全国唯一の宗教教団の名称を冠する天理市となったのです。これは天理教が幕末から地域に大きく貢献してきた陰徳によるものといえましょう。この年、天理外語学校は天理大学となり、今や天理市は奈良の学術都市の様子を呈しています。そして聖地「ぢば」を訪れると、世界に散った同胞が帰還したということで、「ぢばがえり」として迎えられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;しかし、そもそも神道とは何だったのか、中山みきに憑（つ）いた神が実現しようとした人間の救済とは何だったのか、あるいはこれを弾圧する要因となった国家神道と何だったのかといったことは世情からすっかり忘れ去られてしまったのです。昭和40年（1965）ころまで、天理教の白衣に木綿襷（ゆうだすき）、天理教と墨書した笠をかぶり、杖をもった母と娘が、みきの娘こかんを髣髴（ほうふつ）とさせる「においがけ」の旅路を行く光景があったものですが、このごろは見かけなくなりました。おそらく中山みきが確信した「天の理」とは何かが、天理教のみならず、世界的にも問い直されはじめる時期になっているのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;その天理教の｢天の理｣は地中から天上を望む１本の柱、｢かんろだい｣にシンボライズされました。この中山みきにつづいて、神の啓示が下った女性があらわれます。大本（おおもと）の教祖となった出口なお（1837～1918）です。出口なおに憑（つ）いた神は大本の神、国常立命（クニトコタチノミコト）となのりました。そこに出口王仁三郎（おにさぶろう）の大正維新、昭和維新の夢がはらまれたのです。次回は１本のスピリチュアル・ポールが形成する場をもとに発展してきた国常立命（クニトコタチノミコト）を国祖とする神道が迎えた悲惨と、大本に結集した神国幻想の行方をめぐっておこうと思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;



    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/410F2DST8DL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;国家神道と民衆宗教 (歴史文化セレクション)&quot; /&gt;
            
            国家神道と民衆宗教 (歴史文化セレクション)
            村上 重良
            
                吉川弘文館
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/5175FVM9BRL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;幕末民衆思想の研究―幕末国学と民衆宗教&quot; /&gt;
            
            幕末民衆思想の研究―幕末国学と民衆宗教
            桂島 宣弘
            
                文理閣
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ldmQSiiBL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;教派神道の形成&quot; /&gt;
            
            教派神道の形成
            井上 順孝
            
                弘文堂
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/31XCdBCcXEL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;修験と神道のあいだ―木曽御嶽信仰の近世・近代―&quot; /&gt;
            
            修験と神道のあいだ―木曽御嶽信仰の近世・近代―
            中山 郁
            
                弘文堂
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://www.honza.jp/images/no_image.jpg&quot; alt=&quot;柱源神法&quot; /&gt;
            
            柱源神法
            谷口 智泉
            
                東方出版
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/514YQUk9h7L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;中山みき「元の理」を読み解く&quot; /&gt;
            
            中山みき「元の理」を読み解く
            井上 昭夫
            
                日本地域社会研究所
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/419fCWp+UYL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;天理教―神憑りから新宗教へ&quot; /&gt;
            
            天理教―神憑りから新宗教へ
            島田 裕巳
            
                八幡書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/516Ot+m1uML._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;中山みきと被差別民衆【オンデマンド版】&quot; /&gt;
            
            中山みきと被差別民衆【オンデマンド版】
            池田 士郎
            
                明石書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/kanrodaimonogatari.jpg&quot; alt=&quot;kanrodaimonogatari.jpg&quot; /&gt;
            
            ドキュメント かんろだい物語 (道友社ブックレット)
            &amp;nbsp;
            
                天理教道友社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/daishizennoyume.jpg&quot; alt=&quot;daishizennoyume.jpg&quot; /&gt;
            
            大自然の夢
            芹沢 光治良
            
                新潮社
            
            
        
    



&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;</description>
      <pubDate>Tue, 10 Aug 2010 00:00:00 +0900</pubDate>
      <dc:subject>http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=1925</dc:subject>
      <dc:date>2010-08-10T00:00:00+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>想瞬組曲 Vol-19 「火中哉」</title>
      <link>http://www.honza.jp/author/3/inoue_akira?entry_id=1958</link>
      <description>&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3257/kachukana.gif&quot; alt=&quot;kachukana.gif&quot; /&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その昔、この手紙は読み終わったらすぐに火にくべて焼却して下さい、という意味で文末に「火中」としたためる習わしがあったという。もし、その様な手紙を受け取った人が全員手紙を燃やしていたらこの言葉は後世に残らなかったはず、などと混ぜっ返すのは幼稚だが。&lt;br /&gt;
秘められた恋の手紙、商売上の部外秘、そして政略や犯罪に関わる手紙も含め、存在が確認されては差し障りのあるメッセージを消去するサインの言葉だった訳である。&lt;br /&gt;
それに比べると最近のデジタルメッセージは電話を含め、アナログ時代とは様相が随分と変わってきているから簡単に火にはくべられない。携帯電話には交信記録も通信会社に残るし、メールはなにがしかのサーバーを経由するのだから足跡は必ずどこかに残る。一度読み込んだデータをファクシミリ機器が自動消去するというシステムも普及し始めているが、消せると言うことは残すことも出来るというパラドクスを意味しており、故意に他者のデータを悪用する例には暇がない。しばらく前に「IT弱者」という言葉を新聞紙上で見かけたが「IT」という言葉が若干神通力を失った今でも「情報技術弱者」をむさぼる強者もしくは巧者の存在は変わっていないのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現在の通信状況を民主化と見るのか、ビッグブラザー出現と見るのかは難しい問題である。新聞やメディアなどの仲介者の役割が激変し、個人レベルでの「審美眼」ならぬ「審信眼」が問われる時代になっていると言うことだろう。手の届かないところにあるのでさわれないもの、見えないほど遠くにあるもの、実際には聞こえない音や声、変換と選択を経て手元にやってくるこれらの情報を頼りに歩くことの危うさを自覚的に認識できるかどうか？。&lt;br /&gt;
火にくべてくれと言っている情報も、時には火傷覚悟で読まなくてはならない事を忘れてはなるまい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、情報と火中とが結びつけば鮮明に見えてくるのが名作TVシリーズ「スパイ大作戦」の冒頭シーン。「おはようフェルプス君、、」で始まるスパイチームへの指令が録音されたテープは詳細な指令に続いて「例によって、君もしくは君のチームが捕らえられ、あるいは殺害されても当局は一切関知しないからそのつもりで」という終盤の決まり文句へと繋がっていく。そして指令の最後には「このテープは自動的に消滅する」事が告げられ、小型オープンリールテープは末尾で発火してしまうのである。自分から火中に飛び込んでしまうのだから究極の文ではないか！。&lt;br /&gt;
歌舞伎の決まり事に近いこの定型句は毎回同じ流れを踏襲し、メンバー全員が必ず絶体絶命の危機から間一髪生還するエンディングまでの道筋を保証してくれていたものである。&lt;br /&gt;
冷戦体制の世界観をベースにした作品なので「善」たるメンバー達も対峙する「悪」の解釈もコミック的で人間的リアリティは薄かったが、精密に構成された演出は見事だったと言うしかない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、ラロ・シフリン作曲編曲の「スパイ大作戦のテーマ」というメガヒット曲が生まれたことこそ、僕など音楽関係者からすればこの作品の成果として筆頭に挙げなくてはならない。4分の5拍子の名曲といえばデイヴ・ブルーベック作曲の「Take Five」も有名だが「スパイ大作戦のテーマ」はベートーヴェンの「運命」に匹敵するほど冒頭一小節のフレーズだけで、「あ、あの曲だ！」と誰もが認知する傑作である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;Please install the Flash Player&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;音楽図譜「Before and So on」/Music by Akira Inoue&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;■深くて長い呼吸を感じられる音楽を電気楽器で作るのは難しい。微妙な息づかいというのはもっとも肉体的でセンシュアルな音波だからでさる。でも、止まったら倒れてしまうような疾走感だけが電気楽器に可能な表現だなんて思いたくはない。かつて無神経な楽器の代表のように言われた楽器の響きで今僕達は泣いているのだから。新しい順に、エレキギター、サキソフォーン、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ラロ・シフリンはアルゼンチン生まれの作編曲家、ピアニストでありブエノスアイレスで音楽教育を受けた後、パリのコンセルバトワールに学んだという事である。どことなくバンドネオンの革命児、アストゥール・ピアソラの経歴と似ている感じがするのは偶然とばかりは言えないもので、当時の南米とヨーロッパとの距離関係が近かったことの証明でもある。&lt;br /&gt;
ちなみにラロ・シフリンとピアソラは、ほぼ同時期にパリに学生として居たとは言え接点があったという記録は見つけられなかった。ラロ・シフリンの家庭はクラシック音楽家一族で、父親は交響楽団のコンサートマスターであったと云うことだから、レストラン経営者を父に持ちアメリカと移住を繰り返したピアソラのバックグラウンドとは階層的にも少し距離があったのかもしれない。&lt;br /&gt;
さて、シフリンは映画音楽の作曲家としても多数のハリウッド作品で音楽を担当しているし、20曲以上の純クラシカルオーケストラ作品も作曲しているらしい。&lt;br /&gt;
僕達が彼の名前を目にしたのは、どちらかといえばジャズ系のアーティスト人脈の中であり、「スパイ大作戦」がシリーズスタート当初どの程度のリアクションを想定していたのかは知る由もないが結果的に一番良く知られた作品であった。そんな訳であまりクラシカルなイメージは持っていなかったのだが、カレーラス・ドミンゴ・パヴァロッティの「3大テナー」ツアーにも参加しているのをみても、ヨーロッパよりも古きヨーロッパが残っているというアルゼンチン人のメンタリティが作用しているに違いない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「スパイ大作戦のテーマ」は5拍子を３対２というセグメントで分割する構成になっている曲である。そして、この曲の良くできている点はベースラインとリズムが最初の３拍を短い音価の音符２つと３つの休符、というタイトなリズム感を基調としているのに対し、メロディーラインがその上に流れるような長い音価で作られ、しかも３対２という基本的な構造を基本要素としてしっかりと持っているところなのだ。更に４小節目でカットアウト的に途切れて一区切りするメロディーの終止部分は、３拍のまとまりに対して１拍目だけで８分音符二つの印象的な音型で「言い切って」終わってしまい、残りの４拍は効果的にベースラインを引き立たせる余白となる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんな仕掛けは決して偶然に出来上がるようなものではない。ラロ・シフリンが受けた高等音楽教育の賜物として、理数的バランス感覚と古典的な書法、例えば対位法とかフーガやカノンを書く能力の高さを持っていたからこそ、の作品なのである。このように書くと「精密な計算」というイメージを持たれる向きがあるかもしれないが、そう言うことでもないはずである。バッハだっていちいち事前に部品を細かく準備をして設計図を引いた上で作曲をしたのではないだろう。きっとラロ・シフリンも締め切りに間に合わせるために、ひょいひょいとピアノを弾ながら考えただけなのだ。訓練や日頃のインプットの集積は、そうした無欲の瞬間に予兆もなく啓示として現れるものである。本人もその真価に気づかないことだってあるし、何よりもマーケットや聴衆にその値打ちが伝わらないケースの方が多いことを考えると、ラロ・シフリンは実に幸福な音楽家である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、待てよ。アルゼンチンはサッカーをやらせればメッシ、テベス、ミリートと現役でも天才揃いの国だが、勝負にはある意味であざとい「神の手」マラドーナの国でもある。ラロ・シフリンも「ここいらで一丁、グラミー賞狙いのヒット作品を」と狙いに狙って作曲をしたのかもしれない。手紙を出してその辺りを訊ねてみたとしても、その返信は読み終わると自動的に消滅してしまう仕掛けが施されている可能性がある。少なくとも文末には「火中」と記されていることだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それにしても、作曲した時にここまで売れると思っていたのかどうか？やはり聞いてみたいものだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
発行人　井上鑑記す&lt;/p&gt;
&lt;p&gt; &lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3257/文ならぬbottom_copy_3.gif&quot; alt=&quot;文ならぬbottom_copy_3.gif&quot; /&gt;&lt;/p&gt;</description>
      <pubDate>Mon, 02 Aug 2010 19:07:00 +0900</pubDate>
      <dc:subject>http://www.honza.jp/author/3/inoue_akira?entry_id=1958</dc:subject>
      <dc:date>2010-08-02T19:07:00+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>第７柱　国常立尊－４◎神道の国民的拡散と神となった人々</title>
      <link>http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=1923</link>
      <description>
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi_7_4_image.gif&quot; alt=&quot;takahashi_7_4_image.gif&quot; /&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;#12288;江戸時代の中期ころから、吉田神道や吉川神道、垂加神道によって、神道の奥義を授け、死後に霊神、霊社号をおくり、これを祀る新たな神社や祠が造営されることが恒常化しました。初期的には山崎闇斎の門人となった公卿の正親町公通（おおぎまちきんみち：1653～1733）は正親町神道を開いて須守霊社、下御霊神社の神主だった出雲路信直（いずもじただなお）は八塩路霊社（やしおじれいしゃ）、正親町公通の弟子、梅宮大社（京都市右京区梅津）の神職でもあった玉木正英（たまきせいえい：1670-1736）は橘家神道を中興して五鰭霊社（いひれれいしゃ）として祀られたのです。これら闇斎の門人たちは、それぞれ神道の理解、それにともなう霊的修行をふくむ神道をおこし、その奥義の伝授によってそれぞれ独自の神道を喧伝していきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;橘家神道を復興した玉木正英の弟子に熱田神宮（愛知県名古屋市熱田区）の祠官、松岡文雄（1701～1783）がいます。松岡文雄は玉木正英から垂加神道の神道伝授を受けて渾成霊神（こんせいれいじん）とされた人物でしたが、その神道伝授の自由化を主張したのです。享保18年（1733）、松岡文雄は『神道学則日本魂』を刊行し、そこに「国常立（クニトコタチ）は万国の中で人の方寸膻中（ほうすんだんちゅう：胸の中心）の如（ごと）くなる国に、じっと鎮（しずま）り玉ひて、万国の用を為し玉ふ。その万国の為に方寸膻中にあたる国が我国（わがくに）なり。ゆえに特に我国を神国という」と記しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;松岡文雄は心中に国常立尊（クニトコタチノミコト）があり、心の浄化によって国常立尊の本来にもどろうとする霊魂（心）の修養を重視する垂加神道を反転し、天皇の神聖性を国家と国民の大義（重要な意義）の根拠とする「神道の大義」の復興を唱え、国常立尊（クニトコタチノミコト）を&amp;ldquo;天地万国の主宰神&amp;rdquo;としたのです。このころは８代将軍徳川吉宗の時代にあたり、蘭学が勃興し地球的世界観とともに、西欧文明を先進文明とする論調も広まりはじめていました。これはそのような風潮に対して日本が世界の諸国に優越する根拠としての神道を求めようとしたといえましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;これは当時の神道界から異端視され、松岡文雄は橘家神道から破門となりました。しかし松岡文雄のもとに中国伝来の儒学によって日本を解釈するのではなく、日本人が日本語によって日本という国や民族性を研究しようとする俊秀が結集しました。そこから日本初の五十音順の国語辞典『和訓栞』（わくんしおり）を編纂して&amp;ldquo;国語学&amp;rdquo;をおこした谷川士清（たにがわことすが：1709～1776）や宝暦事件（ほうれきじけん：1758）をおこした竹内式部（たけのうちしきぶ：1712～1768）らが輩出したのです。宝暦事件とは竹内式部が桃園天皇に神道と儒教における「大義」、すなわち&amp;ldquo;人民が帝王に忠誠をつくし国家を維持する意義&amp;rdquo;を講義したために天皇の近習（きんじゅう）が幕府との調和をはかる摂関家によって追放されるという事件でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;その背景には『日本書記』という古文書が天孫の天皇と臣民の関係が決定していることを示すとし、これを根拠とする神道によって日本という国家は安定した継続性、世界に誇るべき意義を有し、それゆえに世界の中心の国家であるという主張がひそんでいました。この論調は『大日本史』という歴史書の編纂を通して日本という国体を考えた水戸学、『万葉集』や『古事記』の解読の成果を基盤とする国学を用いた神道になだれこみ、この思潮が顕在化して明治国家へと結実していくのです。この潮流は｢古神道｣を標榜していきます。こうした幽界の議論（霊魂問題）から顕界の議論（国家問題）への反転をふくむ神道をめぐる問題は、たとえば大阪商人が創立した町人学校、懐徳堂（かいとくどう：1724～1869）でも論じられました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;懐徳堂では仏教、儒教、神道 のみならず、ヨーロッパの科学技術にも目配りした世界の思想・文化の比較研究において進められたのです。懐徳堂の学問の基礎を築いた五井持軒（ごいじけん：1641～1721）は、京都で下河辺長流(しもこうべ-ちょうりゅう)に和歌を学び、伊藤仁斎、貝原益軒らと交流して独自に儒学を編集したのですが、神道にも関心をよせていました。持軒は家伝の『日本書記』の「神代巻」解釈があり、そこに用いられた日本語の研究があったけれど、これが不詳になってしまうのを惜しんで嫡子の五井蘭州（ごいらんしゅう：1697～1762）に『神道遺書』をまとめさせたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;五井蘭州も懐徳堂に教鞭をとりながら、『日本書紀神代巻講義』を残しています。そこでは国常立尊（クニトコタチノミコト）を国家生成の神、帝王の祖であり、帝王相続の基（もとい）とし、現在にいたる帝王が追想できる仮にたてられたシンボリックな始祖としたとはいえ、これを実体化しているのです。五井蘭州は国常立尊（クニトコタチノミコト）の&amp;ldquo;常&amp;rdquo;と&amp;ldquo;立&amp;rdquo;について「常は常なり、つねにしてほろびかはらざるなり。立は建立（こんりゅう）なり、かたくたちて倒れざるなり。たをるゝとたつとは反せる語なり」と述べ、少し面倒な言い回しですが、「たつときは治り、たをるゝときは見たる、存亡興廃もこの義にて心得べし」としました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;さらに蘭州は国常立尊（クニトカタチノミコト）について、「天下をしろしめして、とこしなへに立給（たちたま）ふなり。善なれば立ち、不善なればたをるゝといへるは、古来より神道の教なり」とします。五井蘭州の神道観では、国常立尊は帝王が存続するための基（もとい）となる神ではあるけれど、不善があれば倒れるというのが神道の教えとしています。ここでは『日本書記』をはじめとする古代の記録から、天孫とされる天皇と人民の君臣関係も不善があれば倒れてしまうもので、それを読み取るべきだとするのです。これは天皇と人民の君臣関係を不動のものとし、そこに「神国の大義」を見出そうとする、いわば明治国家のイデオロギーに向かう神道とは対極の神道が示されていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;懐徳堂に通って五井蘭州の神道観にふれた１人に上田秋成がいます。『雨月物語』をはじめとする秋成のパロディ・コントにあらわれる幽魂たちは五井蘭州の神道観のよって表現されたもので、霊と心の問題の最前線を作品として提示したともいえます。このような神道における神学をめぐる多様な議論の活性化は知識人ばかりでなく、戯作などを通じて一般に広まったのです。神道は国家イデオロギーに向かうばかりではなく、幕藩体制の矛盾に対応して、多様に民衆レベルに浸透していきました。そのような神道の浸透を背景に吉田神道は日本各地から寄せられる怨霊の慰撫や地域振興の貢献者、あるいは芸能、学芸の先達などの顕彰のための新たな神社の創建に関わっていったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そこに国常立尊（クニトコタチノミコト）を宇宙開闢の最初の一気とし、それがあらゆる自然物、動植物に霊として宿り、人間の心となって働いているとする&amp;ldquo;神・霊・心の一元論&amp;rdquo;が一般化していきました。けれども新たな神社を創建し、その認可を神社伝奏家の吉田家からえるにはかなりな負担を要しました。神社の社家が代替わりするとなれば、神道裁可の下附願いを行い、寺社奉行の認可を得て吉田家に申請し、いよいよ神道裁可となると、申請者は京都の吉田神社で修行し、一定の礼金を吉田家へ納入しなければならなかったのです。これらの費用を神社の氏子の村落や町組の共同体が負担しなくてはなりませんでした。ましてや新たに神社を創建するとなれば、祭神が審査され、そのための費用がかさみます。地域の為政者がこの費用を出したとしても、特別な徴税によったのです。江戸時代の初期には村落共同体はまだ充実していなかったので、神社の創建は少なかったのですが、18世紀に入ると、新たな神社の創建が多くなってきます。これは商業の発展、村落経済の活性化によるものでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;その代表的な神社に和霊神社（われいじんじゃ：愛媛県宇和島市）があります。宇和島伊達氏の祖、伊達秀宗は伊達政宗の長男でしたが、豊臣秀吉の人質となり、その後に徳川家康の人質とされるという不遇な武将でした。ようやく大阪の陣の軍功によって宇和島に封じられたのです。しかし戦場の功名を誇る侍大将桜田玄蕃と新たに赴任した藩の経営に力をそそぐ山家清兵衛（やんべせいべえ）の間に確執が根強く、藩政をめぐって確執が生じました。産業の拡充、民政の安定に手腕を発揮して領民から慕われた清兵衛でしたが、武闘派の讒言によって上意討ちとなり、桜田玄蕃らによって一族は惨殺の憂き目にあいます。これを知った本家の伊達政宗は怒って、あわや改易というまでに至ったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;ところが桜田玄蕃ら事件の関係者が海難や落雷で変死し、領民たちはひそかに城北の八面荒神の境内に祠（ほこら）を建て、神尾勘解由（かんおかげゆ）が山家一族を祀って児玉明神（みこたまみょうじん）と称しました。児玉明神はたびたび霊威をあらわすというので参拝者がふえ、宇和島藩主もとどめることはできず、京都の吉田家に申し出て神として祭祀することとなったのです。承応２年（1653）、京都から奉幣使が訪れ、山頼和霊神社が創建され、元禄13年（1700）に明神号が授与されました。これは地域的な社祠にすぎなかったのですが、享保20年（1735）、享保の大飢饉の最中に５代宇和島藩主となった伊達村候（むらとき）は窮民救済や倹約令制定、家臣団25か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文治政治の徹底をはかる藩校設立などの藩政改革を実施し、山家清兵衛（やんべせいべえ）を顕彰して和霊神社を大規模に整備し、宇和島を象徴する神社となったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;これは宇和島城下の町組、村落共同体の支持をうけ、今でも宇和島の町組がくりだす牛鬼祭（うしおにまつり）で有名です。牛鬼は地獄の牛頭（ごず）ともいい、山間の寺院などに昆虫のような羽をふるわせてあらわれて祟りをなしたという妖獣で、非業に死んだ山家一族の怨霊がうごかしていたものとされます。これを町衆が持ち出して練りあるくということは二度と政道が狂わないことが願われているのであって、吉田神道はこのような怨霊鎮めにも現地におもむいてあたったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi_7_4_image2.gif&quot; alt=&quot;takahashi_7_4_image2.gif&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
宇和島の和霊神社の祭礼にくりだす牛鬼&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;和霊神社は四国、中国、近畿のおよそ150社に勧請されています。たとえば高知の和霊神社（高知市神田字才谷山）は、宝暦12年（1762）、坂本龍馬の祖先、三代才谷屋直益（さいたにやなおよし）が宇和島の和霊神社を持山の水谷山（才谷山）に分霊して建立したのです。坂本家は代々、水谷山に桜を植え、この山は吉野と愛称されました。その100年後、坂本龍馬は「吉野にでかける」と言い残し、和霊神社に詣でて水杯をし、沢村惣之丞とふたりで藩境を越えて脱藩したのです。各地の和霊神社は命がけで藩政改革にいどんだ藩士の心の支えとなっていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;吉田神道がかかわった怨霊事件は全国各地に広がっています。たとえば磐城（いわき：福島県東部）、鎌倉時代からの源氏の名家、相馬氏が祀る涼ケ岡八幡神社（福島県相馬市坪田涼ケ岡）の境内に体興霊神の小さな社祠があり、相馬藩の家老職、郡代頭となって財政立て直しをはかった門馬隆経（もんまたかつね）の神霊が鎮まっています。相馬家は関が原の戦いに西軍に属して滅びるところでしたが、秋田に転封となった佐竹氏に支えられてようやく存続したのです。門馬隆経は、安永２年（1773）、家老就任にあたって窮乏する藩の財政をおもいやり、慣例だった百石の加増を断りました。主君の相馬恕胤（もろたね）は藩主の意向にしたがわない隆経に謀反の猜疑（さいぎ）をおぼえたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;門馬隆経は家老職を解任、所領を没収され、重罪露見ということで獄屋に処刑されたのです。隆経は「思へ人&amp;#12288;犯せる罪のあるなしを&amp;#12288;末にたゞすの神のある世に」という辞世の歌を詠んで斬首されました。この「末にたゞすの神」とはみずからが死後に神となって、主君を糺（ただす）すという強い意志をあらわしています。その死後、残された辞世の歌が実践されるかのように、怪異がたびたびおこったのです。その極め付きが天明の大飢饉でした。大飢饉がおこった天明３年（1738）、相馬恕胤（もろたね）のあとをついだ相馬祥胤（よしたね）は門馬隆経の経営方針を思い、家督相続してから生活費を削って領民のための貯蓄をはじめ、救済基金として一千両を供出し、飢饉の猛威を最小限にとどめ、農民や町人の民力による藩政の立て直しをはかりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;飢饉を乗り切った相馬藩主祥胤（よしたね）は、寛政５年（1793）、門馬隆経の霊を鎮めようと熊野神社（福島県相馬市小泉）に筒宮（つつのみや）を建立して祀りました。それでも怪異はおさまらず、文化13年（1816）、門馬家を再興し、京都の吉田家に隆経の神霊の鎮慰を依頼して体興霊神（たいきょうれいじん）の神号をうけ、相馬藩主の祖先が勧請した涼ケ岡八幡神社（福島県相馬市坪田涼ケ岡）に社祠を建てて筒宮を遷座し、やっと怨霊騒ぎは鎮（しず）まったといいます。こうした動向の背景に自立しゆく村落共同体の根強い抵抗があったことは言うまでもないことでしょう。これは失政に対する為政者のほぼ永遠の謝罪表明ともなったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;農民たちが地域開発事業に倒れた先人を神として祀った神社に岡登霊神社（おかのぼりりょうじんじゃ：群馬県太田市大原町）があります。大間々（おおまま）扇状地の笠懸野（かさかけの）は水量が不足する不毛地でした。寛文９年（1669）、幕府の代官として笠懸野に赴任した岡登景能（かげよし）は榛名山の火口湖、榛名湖から用水を引く計画を立て、綿密に地質を調査し、流路を測量して農民のために開発の許可を得ました。第一次工事で足尾町を起点とする銅山街道沿いに地区割を設けて工事の人員を動員し、不毛の土地2052町歩を開発したのです。さらに第二次工事において新設した村落の水量を安定させるために、大間々地内の渡良瀬川右岸、蕪町から岩盤をくりぬいて取水口を設置し、難工事を重ねて岡登用水をほぼ開通させました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;このような工事には利害がつきまとうもので、用水の恩恵が受けられない農民や河川の水量の変化を心よく思わない住民の反発も多く、貞享４年（1687）、冤罪によって自刃させられました。しかし豊かに発展した新田の農民たちを中心に、宝暦２年（1752）、京都の吉田家に岡登景能の神霊への神号下付運動をくりひろげ、顕神霊神の神号が授与されたのです。そして岡登景能が生前に創建した神明宮の境内に顕神霊神を祀る岡登霊神社が設けられました。村民たちは岡登景能が残した用水の完成を願いましたが、幕府からの許可はえられず、明治五年（1872）、明治政府からの許可をえて翌年に完成し、大正４年（1915）、顕神霊神に従五位の神階が贈られ、地域の誇りとして今に伝えられています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そのほか全国の多くの市町村に霊神、霊社の祠（ほこら）や石碑が多数残されています。これらは吉田神道のみならず、吉田神道の上位にあった伯家神道も加わり、さらに垂加神道から分れた多くの神道家によって与えられたものでした。たとえば俳句の発展につくした芭蕉に青桃霊神、あるいは花の本明神という神号が贈られたり、暦学・和算につくし、日食の予測計算でしられる千葉歳胤（ちばとしたね：1713～1789）に天文霊神の号が与えられたのも門流の人たちが師を顕彰する運動によっていたのです。天文霊神社（てんもんれいじんしゃ：埼玉県飯能市虎秀）は、寛政２年（1790）、歳胤が若き日に籠もって勉学にはげんだという洞窟の前に築かれ、暦算家から崇敬されました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;松尾芭蕉の神格化は芭蕉の死後から門人たちによって進められましたが、吉田神道家からの霊位の授与はなされず、京都・大阪の芭蕉の門流が、寛政５年（1793）の芭蕉百年忌に伯家神道家にはたらきかけて青桃霊神の号をうけたのです。これによって全国の芭蕉が俳句を詠んだところに句碑が立てられ、青桃霊神の社祠が築かれました。さらに天保14年（1843）、芭蕉百五十年忌に江戸の其角（きかく）の門流によって、芭蕉の神霊を明神として祀る運動がおこり、ときの二条左府公（左大臣）から｢花の本大明神｣の神格を与えられ、「古池やかわづとびこむ水の音」の句を詠んだ江戸の深川冬木町、仙台堀河岸（せんだいぼりかし）の船入りの近く、小川橋あたりの沼地のほとりに花の本大明神社が創建されたのです。ところがこの沼地が埋め立てられることになりました。花の本大明神社はどこに移転されたのかは不明になっていますが、おそらく洲崎神社（東京都江東区木場）に併祀されたのではないかと推測されます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そして明治元年（1863）、明治政府は神官主導による大教院を設け、全国の神官と僧侶を教導職に任命したのですが、教導の養成が間に合わず、三森幹雄や鈴木月彦、月の本為山といった俳諧の宗匠を教導職に任命したのです。これは俳諧を通じて&amp;ldquo;国民の思想を善導し天理人道に導く&amp;rdquo;という社会教化運動となっていきました。この運動は神道優先の時代背景もあって、芭蕉の俳諧の奥義を崇拝し、これを宇宙の大元神（おおもとかみ）の啓示として日本文学の規範としようとする神道的な俳諧結社の形成をともなっていたのです。松尾芭蕉の霊格を青桃霊神とする一派は、月の本為山らを中心に、明治７年（1874）、｢祖翁（芭蕉）の言行を旨（むね）とし、物理を明らかにし、俗談を正しくし、和を専務とする｣を主旨とする｢俳諧明倫社｣を結成し、明治18年（1885）、｢神道芭蕉派｣を称して、芭蕉二百年忌に古池教会を創設し、松尾芭蕉を祀る芭蕉神社（現芭蕉稲荷神社：東京都江東区常盤）を築きました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;あるいは江戸の其角（きかく）にはじまる一派は三森幹雄を主幹とし、芭蕉を花の本明神として崇敬する｢俳諧教林盟社｣を結成し、芭蕉の忌日に｢時雨まつり｣（しぐれまつり）をおこなって句会を開き、国家神道を軸とした日本の近代化の中で倫理的な文化を形成しようとする運動を全国的に展開しました。そのころ全国におこった新聞創刊の中で、これらの俳諧結社の主催者は投稿俳句欄の選者ともなり、明治の俳句ブームをまきおこし、全国各地に松尾芭蕉を祀る松尾神社が創建され、芭蕉の句碑が設営されたのです。この芭蕉の神格化による俳諧に敢然と立ち向かったのが正岡子規です。子規は芭蕉信仰による俳句を否定し、西欧近代文学を規範とした｢文学者としての芭蕉｣を研究し、その凄絶な人生とともに磨かれた芭蕉批判が近代俳句の端緒となるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;いずれにせよ、青桃霊神や天文霊神といった霊神位は吉田、吉川、垂加、伯家などの神道家のみならず、それらから神道伝授された各地の神主、あるいはその弟子たちが授与するようになり、ちょっと神道をかじったものがみずからを霊神、霊社とすることさえおこり、いわば&amp;ldquo;神道の国民的な拡散&amp;rdquo;がおこっていたのです。その背景にみずからの霊魂を俗世に生きながら磨き、人格的な修行をしたいという庶民の熱望がありました。それは神道による山岳修行ブームともなってあらわれます。18世紀ころから、精神修養のための神道的な集団登拝がさかんになり、江戸に富士講、大山講、月山講などの登山講がネットワークされてきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;このような登山講の中で全国的な広がりを見せたのが木曽の御嶽山（おんたけさん）に登山して心身を清め、国常立尊（クニトコタチノミコト）の境地にいたろうとする御岳講（おんたけこう）でした。「講」というのはネットワーカーが賛同者から寄付をあつめて事業を展開する仕組みです。御嶽講では指導者の先達が亡くなると、その霊魂が国常立尊（クニタチノミコト）に合一したとして、独自に霊神号を追贈しました。これは神道的な修験として特異な発展をとげ、明治時代に神道十三派の御嶽教（みたけきょう）となります。御嶽山信仰もふくめて、近世から近代にかけて、民間に流布した国常立尊、あるいは大元神はどのように変容していったのでしょうか。次回にながめてみましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;



    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41xCAVDNmiL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;古神道入門―神ながらの伝統&quot; /&gt;
            
            古神道入門―神ながらの伝統
            小林 美元
            
                評言社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51CCQJ0ZMWL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;「現人神」「国家神道」という幻想―近代日本を歪めた俗説を糺す。&quot; /&gt;
            
            「現人神」「国家神道」という幻想―近代日本を歪めた俗説を糺す。
            新田 均
            
                PHP研究所
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41pp-JND2PL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;神道と日本文化&quot; /&gt;
            
            神道と日本文化
            渡辺 勝義
            
                現代図書
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://www.honza.jp/images/no_image.jpg&quot; alt=&quot;近世国学者の研究―谷川士清とその周辺 (1977年)&quot; /&gt;
            
            近世国学者の研究―谷川士清とその周辺 (1977年)
            北岡 四良
            
                故北岡四良教授遺稿集刊行会
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/kaitokudoto.jpg&quot; alt=&quot;kaitokudoto.jpg&quot; /&gt;
            
            懐徳堂とその人びと
            脇田 修 ; 岸田 知子
            
                大阪大学出版会
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51MZNH03Q1L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)&quot; /&gt;
            
            改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
            上田 秋成
            
                角川学芸出版
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/onshuwokoete.jpg&quot; alt=&quot;onshuwokoete.jpg&quot; /&gt;
            
            恩讐を越えて―大崎外伝 (上)
            伊藤 卓二
            
                大崎タイムス社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/chibatoshitanenokoto.jpg&quot; alt=&quot;chibatoshitanenokoto.jpg&quot; /&gt;
            
            天文大先生千葉歳胤のこと―江戸中期に生きた飯能出身の天文暦学者
            山口 正義
            
                まつやま書房
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/415565KTSHL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;俳聖芭蕉と俳魔支考 (角川選書)&quot; /&gt;
            
            俳聖芭蕉と俳魔支考 (角川選書)
            堀切 実
            
                角川学芸出版
            
            
        
    



&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;</description>
      <pubDate>Sun, 01 Aug 2010 17:00:00 +0900</pubDate>
      <dc:subject>http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=1923</dc:subject>
      <dc:date>2010-08-01T17:00:00+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>第７柱　国常立尊－３◎山崎闇斎の垂加神道と現人神になる実験</title>
      <link>http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=1748</link>
      <description>
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi7_3_01.gif&quot; alt=&quot;takahashi7_3_01.gif&quot; /&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;#12288;寛文５年（1665）、吉川惟足（きっかわこれたり）は幕閣の中枢にあった保科正之（ほしなまさよし）の要請によって、「諸社禰宜神主法度」（しょしゃ・ねぎ・かんぬしはっと）の制定にかかわりました。これは戦国時代には強力な大名、豪族にのしあがったり、あるいは稼業にかまける社家があったりで、世俗にまみれた社家を神社の祭祀に専心させる必要があったからです。ここに全国一律の基準を共有する神社神道が成立します。神社といっても、これまでは各地の民俗、習俗にしたがって持続してきたものが多く、人身供儀や性的儀礼などをはらむ淫祠邪教（いんしじゃきょう）もあったのです。「諸社禰宜神主法度」はすでに成立している神社の由来、祭祀などを明らかにし、新たにあらわれる新興宗教についても査定する制度でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;このとき、吉川惟足の進言によって吉田神道が浮上します。神社の神主（かんぬし）は京都の吉田家において一定の修行を積み、装束の許状や神道裁許状、位階を受けて神職としての身分を保証するということになったのです。神社の社家神道は吉田家が管轄し、精神の修養神道は吉川家が管轄する体制が整えられました。これ以降、新興宗教の許認可も吉田家にまかされたのです。これは幕府の神社統制策として、近世の国学や近代の国家神道の立場から批判されますが、現在から見ればかなり融通の利く制度であって、とくに神社神道の清浄観をもたらした功績は大きかったといえましょう。われわれ日本人のみならず、外国からの来訪者でさえ感じる「神社に詣でれば、心が洗われる」という感覚は、まさしく幕府の神道政策が達成した成果が今におよんでいることを示しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;このような惟足（これたり）の働きによって、幕府から疎外されていた吉田神道は神道界の中枢によみがえり、惟足は師の萩原兼従（はぎわらかねより）との約束をはたそうと、吉田家の嫡子、吉田義起（よしおき）に吉田神道の奥義を伝授しようとします。しかし吉田本家は傍系となった萩原兼従の弟子の吉川惟足から奥義を受けることを嫌い、惟足は吉田兼起への神道伝授をすることなく亡くなりました。吉川神道に受け継がれた吉田神道の奥義「四重奥秘・神籬磐境之伝」（しじゅうおうぎ・ひもろぎいわさかのつたえ）が吉川家から吉田家に伝授されるのは、明治21年（1888）まで待たなくてはならなかったのです。もっともこれは先祖の約束をはたすという儀礼的なものだったようで、神道の奥義は吉川神道を通じて流出していたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;｢四重奥秘｣とは神道の奥義に達する４段階の修養階梯です。この第３段階に達すれば、霊神、第４段階では霊社とされ、それ以上の修行でなしえない天性の偉業をなしとげたものは明神、大明神とされたのです。｢神籬磐境之伝｣（ひもろぎ・いわさかのつたえ）の｢神籬｣(ひもりぎ)は太陽の徳をおびた天皇が守る&amp;ldquo;君道&amp;rdquo;、｢磐境｣(いわさか)は誠(まこと)をつくして国家を磐石（ばんじゃく）とする&amp;ldquo;臣道&amp;rdquo;であって、天照大神と素戔鳴尊（スサノオノミコト）の誓約(うけひ)によって決定されているとし、その誓約(うけひ)の意義と方法を述べたものでした。誓約(うけひ)は、『日本書記』の本文に、天真名井（あめのまない）をはさんで素戔鳴尊の十握剣（とつかのつるぎ）と天照大神の八坂瓊之五百箇御統（やさかにのいほつみすまる：勾玉）が交換し、神々を生じさせた儀礼です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;誓約(うけひ)によって天照大神は十握剣から田心姫（タゴリヒメ）、湍津姫（タギツヒメ）、市杵嶋姫（イチキシマヒメ）という宗像神社の三女神を化成させ、素戔鳴尊は天照大神の勾玉から、天孫の正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊（マサカツアカツ・カチハヤヒ・アメノオシホミミノミコト）、天穗日命（アメニホヒノミコト）、天津彦根命（アマツヒコネノミコト）、活津彦根命（イクツヒコネノミコト）、熊野杼樟日命（クマノクスヒノミコト）を化成させました。吉田神道では、誓約(うけひ)こそが依代（ヨリシロ）に霊魂が吹きこまれ、物実（ものざね）としての神が生じた最初の事例とされたのです。｢神籬磐境之伝｣（ひもろぎ・いわさかのつたえ）では、この誓約(うけひ)の研究によって、神が依代(よりしろ)にとどまって霊威を発揮する原理を明らかにし、それを人の霊魂にもあてはめることができるという実践をふくむ、いわば吉田神道における&amp;ldquo;霊魂に関する普遍的な方法&amp;rdquo;が説かれていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;吉川惟足によって補強された吉田神道の奥義は門外に流出しました。会津藩主保科正之（ほしなまさよし）は惟足から「四重奥秘・神籬磐境之伝」を伝授され、生前から霊神とされ、死後に土津霊神(はにつれいじん)の神号を受け、磐梯山麓の見祢山（みねやま）に葬られ、土津神社(はにつじんじゃ：福島県耶麻郡猪苗代町)の祭神となって、土津大明神と敬われたのです。会津藩主は代々、吉川神道の奥義を伝授されて霊神となり、その精神修養は藩士から庶民にまで普及しました。幕末の白虎隊にいたる会津藩の尊王にして徳川家への忠誠を貫いたイデオロギーは吉川神道なくしてはありえなかったでしょう。この神道の奥義を受けた特異な哲人が山崎闇斎（やまざきあんさい：1619～1682）です。山崎闇斎は歴史上まれな&amp;ldquo;生き身のままで神となる実験&amp;rdquo;にいどんで、吉田神道、吉川神道が唱える&amp;ldquo;神・霊・心の一元論&amp;rdquo;を実証しようとしたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;山崎闇斎（あんさい）も浪人の子で、名を嘉（ただし）といいました。両親は鍼灸で生計をたて、嘉は乱暴者だったので叡山に修行に出したのですが、叡山に賢人はいないときめつけ、勝手に山を降りて禅宗の妙心寺に入りました。ここでも手におえない乱暴をはたらいたのですが、土佐山内家の縁戚にあたる湘南和尚（しょうなんおしょう）に師事したのです。そして湘南和尚が高知の名刹、吸江寺（きゅうこうじ）の住職となったとき、ともに高知に下りました。そこで土佐藩の財政建て直しに奔走していた野中兼山（のなかけんざん）と知り合い、南学派の谷時中（たにじちゅう）から朱子学を学びました。そして禅僧を棄てて還俗し、朱子学者として再出発し、山崎闇斎と号して京都に私塾を開いて名声を博します。寛文５年（1665）、闇斎は保科正之の賓師として招かれ、吉川惟足の神道の講義を聞いて師事したのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;闇斎は諸国をめぐって日向神道、出雲神道、忌部神道、賀茂神道、御霊神道などを合わせ、伊勢外宮の神官、渡会延佳（わたらいのぶよし：1615～1690）にも師事し、朱子学を基調として陰陽道、気学などを応用した垂加神道(すいかしんとう、しでますしんとう)を工夫します。垂加神道では「天照大御神の道」（皇道）と「猿田彦大神の教え」（道を導く臣下への教え）からなるとします。この「道」と「教え」を正しい態度で「敬」（つつしみ）をもって貫くことによって、「宇宙の本体」と「道徳の根源」である国常立尊（クニトコタチノミコト）と合一するという「天人唯一の理」を説いたのでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;この新たな神道を吉川惟足は承認し、山崎闇斎に「垂加」（しでます：一般的には&amp;ldquo;すいか&amp;rdquo;）の号を与えました。それで闇斎の神道は垂加神道と呼ばれます。闇斎は実証主義的な朱子学者で、人が神になりうるという神道の理論を実践したのです。『日本書記』に大国主命がみずからの奇魂（くしみたま）・幸魂（さきみたま）を三輪山に祀ったという記述に触発されて、朱子の「家礼」にしたがって霊璽(れいじ)をつくり、そこにみずからの霊魂を封じ、京都の自邸に祀りました。霊璽は中国の儒教において祖霊の御霊代(みたましろ)として用いられていたもので、神道では木主(ぼくしゅ)・神主(しんしゅ)とされ、神道の葬儀において亡き人の霊魂をとどめ、家の守護神として祀るようになるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;それはともかく、延宝二年（1674）、闇斎は生きながらにして霊魂を封じた霊璽を御神体として、出雲路信直（いずもじのぶなお）が神官をつとめる下御霊社（しもごりょうしゃ：京都市中京区）の御本殿玉垣内南方に遷し、垂加霊社（すいかれいしゃ）を築きました。この「生きながらの神」（現人神：あらひとがみ）となる所業はさすがに幕府のとがめをうけました。天和年中（1681-1683）、奉行所に出雲路信直が呼び出され、垂加霊社について尋問されたのです。奉行所は出雲路信直の説明を聞いて、垂加霊社は公認ということになりました。これを聞いた闇斎は、御公儀にたてつく事は無用とし、どこかの社の相殿に祀るがいいというので、下御霊社の境内にあった猿田彦社に合祀されたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;

&lt;p class=&quot;MsoNormal&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3279/takahashi7_3_2.jpg&quot; alt=&quot;takahashi7_3_2.jpg&quot; /&gt;&lt;br /&gt;
下御霊社の末社・猿田彦社&lt;br /&gt;
柿本人麿の神霊・柿本社、山崎闇斎の神霊・垂加霊社を合祀 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;垂加神道においても、宇宙の生成から人間にいたる万物の創出は国常立尊（クニトコタチノミコト）、すなわち大元神（おおもとのかみ）から天神地祇（てんしんちぎ）、八百万神（やおよろずのかみ）に分配され、人間にも分け与えられる&amp;ldquo;霊魂の潮流&amp;rdquo;としてとらえられたのです。したがってこの世のすべての実体、現象に大元神（おおもとのかみ）のはたらきがおよび、神々は御神体に顕現（けんげん）し、巫祝（ふしゅく）に憑（つ）くことができるということになります。このような神道はアジアの霊魂観の中での実践体系として優れていると、山崎闇斎は披瀝(ひれき)しています。そのポイントを闇斎の神道の解説から要約してみましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;垂加神道が示した神学の第１の根幹は「天人合一」（てんじんごういつ）です。朱子学は天の理と人の理とが合一する聖人をめざします。日本の神道では最初の神、国常立尊（クニトコタチノミコト）は天地一気の神で、２代から６代までは五行の神、第７代の伊弉諾（イザナギ）・伊弉冊（イザナミ）は造化と気化をかねた神とされます。この夫婦神が国土、山海、草木を生み、神々を生み、人間を生んだわけですから、人間には神の霊が宿っているわけです。これは北畠親房が述べた神学を踏襲していますが、それ自体を「天人合一」の実現とします。中国では王朝が争乱によって変化し、武力を結集したものが皇帝となったために霊魂の原理が失われ、朱子が示したような聖人になる修養が必要になったのですが、日本には天皇が持続したので、国常立尊（クニトコタチノミコト）の霊が分けられる原理が残され、そのまま聖人となることができるというわけです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;第２の根幹は朱子学の「道」に沿う生き方です。そこには闇斎の独創も加わっていますが、神道には「国常立尊（クニトコタチノミコト）の霊魂を分与された人間が、その霊魂のままに生きていく道」があるとします。それこそが本来の朱子学の「道」とし、人間が何かに迷ったときには、祈祷することによって進むべき「道」が啓示されるとしたのです。倭姫命（ヤマトヒメノミコト）に下された神託とその実践こそが神と人の関係を示す事例とし、神の示した道に「正直」であることが成果をもたらすとしたのです。これも中国にかつてはあった神道が失われてしまったために「道」が見失われ、朱子が設定したような複雑で困難な修養プログラムが必要となったとするのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;その「正直」はどこに生じたかといえば、北畠親房が述べた金徳の神とされる大戸之道尊（オオトノヂノモコト）・大苫辺尊（オオトマベノミコト）から土徳の神とされる面足尊（オモダルノミコト）・惶根尊（カシコネノミコト）が生じたときにあるとしました。垂加神道の「土金伝」（どきんのつたえ）によれば、火気から土気が生じ、土気が金気で堅くしまって人が生ずるとし、人が生じたときに惶根尊（カシコネノミコト）があらわれるのは、「惶」（かしこむ）という心が封入されたことを示したもので、これは「敬」（けい：うやまいの心）になっていくとします。それは「土地之味」（つちしみ）、すなわち「慎み」（つつしみ）によって養われるとしたのでした。このような土との関わりによる自然と人間の関係にメタファーされた神と人の関係を尊ぶ清浄な生き方こそが「正直」にほかならないわけです。いささか衒学的（げんがくてき）な言語編集がなされていますが、「土金伝」の正直観は、今も日本人の正義の概念に影響を与えつづけているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;そして第３は社会的な倫理についての考察です。朱子学ではこれを「五倫」（父子の親愛・君臣の正義・夫婦の区別・長幼の序列・朋友の信義）、「五常」（仁・義・礼・智・信）とします。その中で君臣関係を人倫の最優先事項としたのです。なぜなら君臣関係は神話において国土創生のときから、皇孫が君主として確定しているとしました。したがって皇室こそがもっとも尊敬されるべきであって、天皇と将軍は君臣の関係にあるとしたのです。この関係を基本にしているからこそ、日本では武力や財力で皇位が奪われることなく、聖人の統治が持続してきたとするのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;こうしてみると、闇斎は儒教の霊魂観が古くは日本の神道と等質だったと考え、それが中国では特異な文明の発展によって忘れられていたのを、朱子が再発見したという思いを抱いたのでしょう。このような東アジアの霊魂観を共通とする神学は、日本に独自な精神性があるとする国学によって批判されます。国学では日本人の生き方は中国思想によって追認される必要はなく、日本語と日本人の行動、文化に神道は生きつづけているとしたのです。これが&amp;ldquo;惟神の道&amp;rdquo;（かんながらのみち）とされました。吉田神道、吉川神道、垂加神道などが幕藩体制と結びついていたのに対し、国学を基盤にあらわれた新たな神道は幕藩体制の矛盾を背負った地域のミドルリーダーに支持され、明治維新の引き金となっていくのです。この転換を短絡的にいえば、漢文で書かれた『日本書記』にもとづく神話解釈から古代日本語で書かれた『古事記』にもとづく神話解釈への転換といえましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;契沖から本居宣長にいたる万葉仮名の解読によって、日本語による神話、歴史の新たな解釈がおこりました。これによって、『日本書記』の本文にもとづいて国常立尊（クニトコタチノミコト）を祖神（おやがみ）とする神話の解釈より、『古事記』において最初に出現する天御中主命（オオミナカヌシ）・高御産霊命（タカミムスビノミコト）・神産霊命（カミムスビノミコト）という造化三神を宇宙の始原の神とする神学が優越してきたのです。この国学を基盤とする神学は平田篤胤の『霊の御柱』（たまのみはしら）によって一応の完成をみます。そこでは中国の儒教・道教、ことに西欧近代科学の地球説、太陽系の生成論を組みこんで世界の宗教思想を陵駕（りょうが）する神道がめざされました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;平田篤胤の言説によれば、北極紫徴宮(ほっきょくしびきゅう)とされる高天原(たかまがはら)に造化三神があらわれ、「ムスビ」の力によって天地の分判がおこったとします。造化三神の命を受けた伊佐那岐命（イザナギノミコト）・伊佐那美命（イザナミノミコト）が地球上に国土を&amp;ldquo;造固&amp;rdquo;し、伊佐那岐の禊（みそぎ）によって、「天日御国」(あまひのみくに：顕界)を統御する天照大御神と「月夜見国」(つきよみのくに：冥界)を統御する月夜見命（ツクトミノミコト）、すなわち須佐之男命（スサノオノミコト）が生じたとするのです。そして豊葦原中津国(とよあしはらなかつくに)を開発した大国主命(オオクニヌシノミコト)は、「天日御国」の統治者、天照大御神の子孫に国譲り（くにゆずり）し、「月夜見国」に去って冥界の支配者となったとします。篤胤はこれを日本古来の神道の復活とし、｢復古神道｣として喧伝したのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;平田篤胤のいわばユニバーサルな神道宇宙論は明治維新に後退します。明治維新に神祇事務局権判事となった大国隆正(おおくにたかまさ)は、天御中主命(アメニミナカヌシ)を宇宙が発生するプロセスを統御した「未発の神」（みはつのかみ）、天照大御神(アマテラスオオミカミ)は宇宙が発生した以後の世界を統御した「已発の神」（きはつのかみ）として天地を治めるとします。そして天御中主命が隠れた後は「天の中点は天照大神にして、地球上の中点はわが天皇にておわします」と述べ、天皇は地上を治める国御中主（クニノミナカヌシ）とし、天皇は天皇であるがゆえに現人神(あらひとがみ)としたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;これを一言でいうなら、宇宙の発生が国常立尊(クニノトコタチノミコト)にあるとした神学が天御中主命(アメノミナカヌシ)と天照大御神(アマテラスオオミカミ)を同体とする神学へと転換し、その子孫の天皇のみが現人神(あらひとがみ)として世界に君臨するという神学を創生したということです。北畠親房にはじまる中世・近世の神道では大元神(おおもとのかみ)の国常立尊(クニノトコタチノミコト)が宇宙を分判させた最初の気を霊魂の源泉とし、人間の霊魂もその流れに生じるとします。そこには天皇や貴族にしても、武士や庶民であっても、神道への理解や修養の深さ以外に霊魂の差別はありません。しかし近代の国家神道は大元神を皇祖の天照大御神とすることで、その子孫の司祭王、天皇からあらゆる霊魂が分与されるということになり、そこに近代日本の祭政一致体制の土台が組まれ、｢天皇は親、国民は子｣というロジックが可能になったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;このような神話の読み替えによって形成された近代日本の神道は、明治２年（1867）、吉田家の神道管轄体制を廃し、律令時代の神祇伯の伝統を継ぐ白川資訓子爵（1841～1906）を長官とする宣教使の官を置いて、初めて近代神道の宣教を開始します。その翌年の大教宣布(だいきょうせんぷ)に小野述信(おののぶざね：1824～1910)がまとめた『大教旨要』(だいきょうしよう)が公布され、これが国教化されて国家神道となっていくのです。これは神仏分離令をともない、廃仏毀釈をひきおこし、思想統制をはらみました。そして明治政府は大元神(おおもとのかみ)を国家神道が規定した皇祖にして始原の神、天照大御神（アマテラスオオミカミ）とすることに反した神道を懐柔し、あるいは弾圧せざるをえなかったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;#12288;中世から近世に発達した吉田神道、吉川神道、垂加神道では神々が依代により憑き、巫祝の口を借りて語りかけ、人間はだれでも生きているうちから現人神（あらひとがみ）にさえなれるとしています。ましてや死んで霊魂が肉体を離れても、それが霊威を発揮するという&amp;ldquo;依代と物実&amp;rdquo;の原理は失われなかったのです。これは国常立尊（クニノトコタチノミコト）と称される祖神（みおやのかみ）が天地を分判したときに発した最初の気が、この世のすべての物質、生物、神々、人間に流出しているという理論にもとづいていました。このような神道に立脚する民衆宗教は、明治維新にあるものは教派神道として認められ、あるものは残虐な弾圧をうけたのでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;



    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51URipWwEHL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)&quot; /&gt;
            
            現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)
            山本 七平
            
                筑摩書房
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51LkWSaUJaL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;現人神の創作者たち〈下〉 (ちくま文庫)&quot; /&gt;
            
            現人神の創作者たち〈下〉 (ちくま文庫)
            山本 七平
            
                筑摩書房
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51qtd8I92EL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;垂加翁神説,垂加神道初重伝 (岩波文庫 青 44-1)&quot; /&gt;
            
            垂加翁神説,垂加神道初重伝 (岩波文庫 青 44-1)
            山崎 闇斎 ; 村岡 典嗣
            
                岩波書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51P06RMQBAL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;山崎闇斎の世界&quot; /&gt;
            
            山崎闇斎の世界
            田尻 祐一郎
            
                ぺりかん社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51TP13YYJ2L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;垂加神道の成立と展開&quot; /&gt;
            
            垂加神道の成立と展開
            谷 省吾
            
                国書刊行会
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51TZVFC036L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;山崎闇斎の政治理念&quot; /&gt;
            
            山崎闇斎の政治理念
            朴 鴻圭
            
                東京大学出版会
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/416PD7PS94L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;近世神道と国学&quot; /&gt;
            
            近世神道と国学
            前田 勉
            
                ぺりかん社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/31XCdBCcXEL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;修験と神道のあいだ―木曽御嶽信仰の近世・近代―&quot; /&gt;
            
            修験と神道のあいだ―木曽御嶽信仰の近世・近代―
            中山 郁
            
                弘文堂
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41vOvGuvVKL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;垂加神道の人々と日本書紀&quot; /&gt;
            
            垂加神道の人々と日本書紀
            松本 丘
            
                弘文堂
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51JE06G0ACL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;近世朝廷と垂加神道&quot; /&gt;
            
            近世朝廷と垂加神道
            &amp;nbsp;
            
                ぺりかん社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/51uG6vGd2-L._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;平田国学と近世社会&quot; /&gt;
            
            平田国学と近世社会
            遠藤 潤
            
                ぺりかん社
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/410XEeFEzoL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)&quot; /&gt;
            
            神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)
            安丸 良夫
            
                岩波書店
            
            
        
    






    
        
            &lt;img src=&quot;http://ecx.images-amazon.com/images/I/41EjK91N5lL._SL160_.jpg&quot; alt=&quot;国家神道形成過程の研究&quot; /&gt;
            
            国家神道形成過程の研究
            阪本 是丸
            
                岩波書店
            
            
        
    



&lt;p&gt;&amp;nbsp;&lt;/p&gt;</description>
      <pubDate>Wed, 21 Jul 2010 14:32:00 +0900</pubDate>
      <dc:subject>http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=1748</dc:subject>
      <dc:date>2010-07-21T14:32:00+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>【030425】眠れぬ夜。⑩以上。林英哲＋山下洋輔。</title>
      <link>http://www.honza.jp/author/3/asaba_katsumi?entry_id=1657</link>
      <description>&lt;p&gt;2003年4月25日&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;眠れぬ夜が続く。近日やることをメモしたら⑩以上あった。／林英哲＋山下洋輔コンサートの打上げでカンパイの音頭を取ってほしいとのこと。／イラク戦争。中国の病気。時の流れの早さ。若仲展を望遠鏡で見ているストイックな男。／①波歌書&amp;rarr;装丁／③犬・猫チラシ&amp;rarr;日比野武男の屋台の写眞／④タロットカードまとめ／⑤アートナビゲーターポスター／⑧竹展ダイアリー（竹尾社長、二弦社渡辺社長、原研哉、浅葉克己会談）／⑩悲し器父娘展礼状。／⑪デザイン建直しスクール講演３回、スライド組み。一日一圖。／ユニクロから沢山Tシャツがとどいた。／どんどん贈っちおう。西田龍雄博士に手紙書かねば‥‥。礼状って本当に書けぬものだ。／安藤忠雄のポスターのお礼。白の復権。と言っている好評みたいだ。／英哲コンサート途中から入るととなりが三枝成彰だ。／３階でワインを飲んで打ち上げPartyの始まりを待つ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img class=&quot;pointer&quot; src=&quot;http://www.honza.jp/share_file_path/user/3256/asabadiary_030425.jpg&quot; alt=&quot;asabadiary_030425.jpg&quot; /&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;［&amp;uarr;画像クリックすると日記全文が読めます］&lt;/p&gt;</description>
      <pubDate>Sat, 17 Jul 2010 19:52:00 +0900</pubDate>
      <dc:subject>http://www.honza.jp/author/3/asaba_katsumi?entry_id=1657</dc:subject>
      <dc:date>2010-07-17T19:52:00+09:00</dc:date>
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